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日本で人気の有名なフランスの人美術家の絵画を紹介

ルノワール
人物を愛した印象派の画家、ルノワールの生涯とその作品
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19世紀フランス印象派から後期印象派にまたがり、数々の名作を生み出した画家、ルノワール。モネら同期の印象派の作家のなかでも、技法においてリーダーシップをとった存在です。

風景画の多い印象派のなかでは、ルノワールの絵画はもっぱら人物画が中心。パリの人々、特に女性像を描いてきたルノワールの生涯、そして作風はどのようなものだったでしょうか。

最近では、横浜美術館で2019年9月から2020年1月13日まで展覧会「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」も開催されました。ルノワールとその絵画について学び、より奥深い鑑賞を目指しましょう。

印象派の画家、ルノワールの生涯

ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Augustê Renoir)は1841年、フランス中南部に位置するリモージュの労働階級の家庭に生まれました。ルノワールは貧しい仕立て屋の家の6番目の子供であったために、社会の中で身を立てようという決意がなおさら強くあったとか。

1844年に家族でパリのビブリオテーク街へ移り住みます。小学校の頃には音楽の才能を見出され、聖歌隊に入ったルノワールは美声であったという話も。しかし13歳の頃、両親からデッサンの才能を見出されたルノワールは音楽の道には進むことなく、レヴィ・フレールの陶磁器の工房で絵付け職人の見習いとして奉公します。昼に見習いをしたあと、夜にはカルノエットのデッサン教室で美術の基礎を学びました。

1858年、陶磁器の絵付けは機械化が進んだことにより、17歳のルノワールは陶磁器の絵付け職人を退職。生活のために、当時パリで日本の浮世絵などジャポニズムの影響から流行していた扇子に装飾を施すなど、職人の仕事をしながら生計を立てます。

そして1859年、教会のテントなど、あらゆる絵付け職人の仕事を請け負い、貯金をしながらルノワールは画家になることを志します。ルーブル美術館に通い、ルーベンスやフラゴナールの模写をするなど、自力で熱心に学習していました。

1862年、国立美術学校に入学し、画家になるための活動を本格化。ルノワールが登録した新古典主義の画家、シャルル・グレールのアトリエにて、同じく印象派の美術運動を切り開いたクロード・モネ、フレデリック・バジール、アルフレッド・シスレーらと知り合い、交友を持つようになります。

モネを通した学友との交流

ルノワールの友人モネの肖像画
印象派の画家たちは、ルノワールをはじめモネ、バジール、シスレーらグレールのアトリエにいた画家のグループ、またアカデミー・シュイスに出入りしていたカミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギョーマンらが中核をなしています。彼らの交流は、グレール、そしてアカデミー・シュイスのアトリエを行き来していたモネが繋いだもの。

当時、彼らの中で最も反骨精神に満ちていたモネは、新古典主義の様式を固く教授しようとするグレールのアトリエに身を置きつつ、より自由な気風のアカデミー・シュイスにたびたび顔を出していました。それをきっかけに彼らは交流をもち、フォンテーヌブローの森で共に作品を制作するなど、互いに影響を与えながら画家としての腕を高め合ったといいます。

また、モネ、バジール、シスレーら学友とともにルノワールがフォンテーヌブローで写生をしていると、スペイン出身のバルビゾン派の画家、ナルシス・ディアーズ・デラペーニャに出会います。デラペーニャに明るい色彩を使うようアドバイスを受けたことから、ルノワールは印象派に特徴的な明るい色彩を使い始めました。

印象派画家としての軌跡

フランスの画壇「サロン・ド・パリ」は当時19世紀フランスのアートシーンの難関であり名門で、画家なら誰もがサロン入選を目指しました。ルノワールも、1863年からサロンに挑戦を始めましたが、最初の応募では落選となりました。続いて、1864年に《踊るエスメラルダ》という絵画を応募し、初入選を勝ち取ります。しかし、ルノワールはその絵画を黒く塗りつぶして破棄しています。

この頃ルノワールはグレールの画塾を辞め、エイロー通りに自身のアトリエを構えます。学友の中でもモネとバジール、シスレーとの交流は深く、ルノワールが初めて依頼され制作した肖像画はシスレーの父親からであったといいます。

ルノワールは貧しい家庭に生まれたため、他の画家のように家族からの経済的支援が望めず、シスレーはよくルノワールを助けるために肖像画を依頼しました。またサロン応募の際ルノワールはよく「グレールの弟子」として出展しましたが、新古典主義に傾倒したグレールのことを敬愛しているというわけではなく、あくまでもサロン出展の「尾ひれ」であり、ルノワールの貧困と出世に対する貪欲さを感じられます。

1867年にはサロンの審査が厳しくなり、《狩りをするディアナ》を出品したルノワールは落選しますが、1865から、1870年と継続してルノワールはサロン出展を果たします。
狩りをするディアナ

しかし、1870年にフランス帝国とプロイセン王国間に普仏戦争が勃発。フランスは敗戦し、第三共和制になってからサロンは保守的な絵画をより擁護するようになっていきました。1872年、1873年とルノワールはサロン続けて落選しマネやホイッスラーら落選作家たちとともに落選展を開きます。

サロンの落選はルノワールの経済に打撃を与えましたが、エドガー・ドガの助けによりアートコレクターの紹介もあり、ことなきを得ます。また73年にはモネとピサロの紹介でデュラン・リュエルという画商と知り合い、定期的にルノワールの作品が購入されることで経済的にやや安定し、ルノワールはサン=ジョルジュ街にアトリエを借ります。

そして印象派の美術運動が起こるのは、1874年。モネとピサロを中心としてサロン・ド・パリから独立し、審査員のいない自由な展覧会を実現するためにルノワールらは共同出資社を設立。ルノワールは第一回印象派展に『踊り子』『桟敷席』など6点を出展。
踊り子、桟敷席

しかし、当時は印象派絵画の評価は低く、貧しかったルノワールは1878年より並行して報酬の出るサロン出展も継続します。そして1881年よりルノワールは印象派展から離れ、サロンへ復帰。印象派展に参加したモネ、シスレー、セザンらも分裂していきます。

「アングル風」から晩年

1880年の頃から90年ごろまで、ルノワールは印象派の技法にこだわらなくなります。アルジェリアやイタリアなど旅行にいそしみ、特にイタリアではラファエロやの作品を研究し、ドミニク・アングルのような写実性の強い古典主義へと回帰するような絵画を制作するようになりました。

ルノワールの印象派時代は、不特定多数の人びとが日常の中にいる「風俗画」が中心的でしたが、この「アングル風」といわれる時代のルノワールの作品は人間一人ひとりのまとまりに興味を移します。

そして1888年より、ルノワールは難治性のリューマチにより晩年まで苦しむことに。この頃より、燃えるように色彩豊かな輝きを絵画に与えていったのは、病気による人間の感性の喜びへの憧れを由来としているともいわれています。

1892年にルノワールはデュラン=リュエルの画商で個展を開き大成功を博し、サロンの常連でもあったルノワールは着実に評価を固めていきました。1900年にはレジオン・ド・ヌール勲章を受け、またパリ万博に作品を出展。

また人望のあったルノワールは1894年、画家であり絵画収集家のギュスターヴ・カイユボットの遺言執行人として印象派の作品68点の行方を任されます。コレクションの一部は、ルノワールの作品を含めリュクサンブール美術館に収蔵されることで決着しました。

1903年からルノワールは南仏カーニュ=シュル=メールに移り住み、家族とともに晩年を過ごします。1919年、幼少期から通い憧れたルーヴル美術館に自身の作品《シャルパンティエ夫人の肖像》が収蔵されるのを見守り、同年に肺充血によりその人生に幕を閉じました。
ルーブル美術館収蔵のシャルパンティエ夫人の肖像

名言

ルノワールをはじめ、世界的な芸術家は名言を残しています。

ルノワールは1919年の12月3日、カーニュ=シュル=メールにて肺充血で亡くなる数時間前も画家として絵画制作を行いましたが、花を描こうとした際、「ようやく何かわかりかけてきたような気がする」と言い残したといいます。

また、「芸術家というものは自分に才能があると思うとだめになってしまう。つけ上らず職人のように仕事をしてこそはじめて救われる」など、貧しい家庭に生まれ職人として身を立ててきたルノワールの謙虚な人柄を思わせる言葉も。

しかし、女性像を多く手掛け、また恋多きルノワールらしい「もし夫人の乳房と尻がなかったら私は絵を描かなかったかもしれない」という、女好きの一面を思わせる言葉も残されています。

作品解説

ここから、印象派から「アングル風」、後期印象派にまたがるルノワールの絵画について解説していきます。「生きる歓びを描く」を信条としたルノワールの作品を追っていきましょう。

《狩りをするダイアナ》

狩りをするダイアナ
1967年のサロンに落選した作品ですが、ルノワールの画家としての出発点を記念する力作の一つです。クールベの写実表現の影響があり、木々や岩などはフォンテーヌブローの森の風景を借りたものであるといわれています。

ローマ神話の女神ダイアナを主題としたサロン向きの題材ですが、サロンからは、クールベの影響を受けた新古典主義に沿わない、写実的な表現が不評であったようです。現在はワシントン・ナショナル・ギャラリーに所蔵されています。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会
1876年の第三回印象派展に出展された大作で、ルノワールの印象派時代の絵画で最も知られているであろう、代表作のひとつです。

「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」とは、モンマルトルの丘の上にあった庶民的なカフェの名前であり、労働者や芸術家たちが憩いのひと時を過ごした場所。ルノワールもそのカフェの常連であり、自然な気持ちから人々の喜びを描いたのではないかと想像させます。

揺れる木漏れ日と人々のドレスの鮮やかさなど、網膜に届く光の粒が感じられるようなこの絵画は、現在ルーブル美術館に所蔵されています。

《舟遊びの昼食》

舟遊びの昼食
1881の作品。人々の日常生活を優しく描き出すルノワールの傑作であるとともに、印象派の技法から決別し古典主義の技法へと回顧する頃の記念的作品ともいわれています。

映画「アメリ」にも登場する絵画として知る人は多いのではないでしょうか。登場人物たちがそれぞれ反対側にいる人物や別の人物に視線を向けているのに対し、画面奥側の少女が誰にも視線を送らずにぼんやりと水を飲んでいるのが特徴的。

光の描写は《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》よりも巧みであり、描かれているのはカイユボットとのちに結婚するモデルであるアリーヌ・シャリゴー。第七回印象派展に出展されました。

現在この作品はワシントンのフィリップス・コレクションが所蔵しています。

金髪の浴女

金髪の浴女
こちらも1881年の作品。イタリア旅行中のルノワールがナポリで描いた裸婦像で、ヴァチカンで見たラファエロの影響が垣間見られる絵画です。

光の表現を鮮やかな色彩の対比で描かれてきた従来の印象派的な技法ではなく、フレスコ画のようにはっきりとした形状を描き出す古典主義的な方法を用いており、裸婦の背景に見える風景はまさに古典絵画の典型的な図像のようにもみえます。

現在、この作品はマサチューセッツ州のクラーク・アート・インスティチュートに所蔵されています。

《ピアノの前の少女たち》

ピアノの前の少女たち
ルノワールの代表作のひとつ。1892年の作で、ルノワールの作品としてよく教科書に乗る作品です。ルノワールは1890年代に同じピアノの前の人物像を多く手掛け、中でもこの二人の少女はよく登場しています。

この絵の中では角ばったものや荒々しいものは除かれ、真鍮製の燭台も丸みを持って描かれています。クッションやカーテンなど柔らかな布や、花を生けた花瓶など、少女たちとともに彼女らを際立たせる意味の可憐なもので埋め尽くされた絵画です。

現在はオルセー美術館に収蔵されており、2019年から2020年にかけての「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展のために日本に来ており、展覧会の目玉として展示されています。

《35歳の頃の自画像》

ルノワールが描いた35歳の頃の自画像
新古典主義まで「自己表現」のなかった時代を切り開いた当時の印象派の画家たちは、それぞれ自画像を手がけました。ルノワールも自画像を残しています。

謙虚で誠実な人物であったルノワール。貧しい家庭から身を立てた画家として、モネやバジール、シスレーら学友やマネら当時の印象派画家たちの助けを得ながらも、サロン出展を継続して実現した実力派の視線が描かれています。

現在はハーヴァード大学のフォッグ美術館に収蔵されています。

まとめ

女性像、そしてパリに息づく庶民的な人々の暮らしや風俗文化を愛したルノワールの作品は、「印象派の絵画」を語るときには必ず脳裏に思い浮かぶもの。

優しいタッチで描かれ喜びの光に満ちた絵画は、高尚なアートの世界の中でも、多くの人に親しまれています。

ルノワールの絵画は印象派から独自に古典主義に回帰し、後期印象派へとまたがる作風を展開しました。可憐なだけではなく芸術に対する深い洞察力の持ち主の描いた絵画として、改めて見直してみましょう。

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