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ビートルズと結婚した日本人アーティストが手掛けるアートを紹介

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ジョン・レノンのパートナー、オノ・ヨーコの作品を知ろう
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アーティストのオノ・ヨーコといえば、誰もが頭に思い浮かべるのが「今はなきジョン・レノンの元パートナー」であることでしょう。

オノ・ヨーコには美術作家・音楽家・平和活動家という肩書きがあるものの、実際にどんな作品を作っているアーティストであるのか知っている人は案外多くはないのではないでしょうか。

この記事で、2020年現在86歳という年齢ながら精力的にアート活動を続けるオノ・ヨーコのアーティストとしての一面、そしてその美術作品について紹介していきます。

アーティスト、オノ・ヨーコの経歴

オノ・ヨーコ(Yoko Ono)は1933年生まれの芸術家、音楽家、平和活動家です。アメリカで活動するアーティストとして世界的に知られていますが、帰国子女であるため、アメリカとはもともと縁の深い関係でした。

オノ・ヨーコは東京都に「小野洋子」として、銀行員の父と安田財閥を設立した安田善次郎の孫である母を両親に持ち、裕福な家庭に生まれ育ちました。戦前、2歳の頃に父のいるサンフランシスコに転居したのが最初の渡米で、すぐに母のいる鎌倉の別荘に移り住みました。小学校時代に再び渡米を挟み再び帰国ののち、20歳の頃にニューヨーク郊外に移り住み、アーティストの道を進みはじめます。

戦後の貧しい日本でも、裕福な家庭に生まれたことでオノ・ヨーコはニューヨークに渡米して教養を養うことができ、また恵まれた才能から、芸術家としての人生を約束されていたように思われます。しかし、その実態はオノ・ヨーコ自身のもつ類稀なる行動力が影響しています。

前衛芸術の道

アーティストとしてのオノヨーコ
オノ・ヨーコは1953年にニューヨークの私立大学、サラ・ローレンス大学に入学し、音楽と詩を学ぶなか、最初のパートナーでピアニストの一柳彗(いちやなぎ とし)と出会い、大学を中退し結婚します。そして一柳彗とのつながりで、「4’33”」で知られる実験音楽家のジョン・ケージと知り合い、多大な影響を受けました。

また、1960年には自身のスタジオ兼住居であったマンハッタンのスタジオを若手アーティストのためのギャラリーにし、自身のコネクションを利用してイサム・ノグチなど美術界でもトップの人物を招き交流を図るなど、後輩の面倒見の良い一面も。

その頃、オノ・ヨーコは世界のアートシーンの中心であるニューヨークでアーティストとして活動をするなか、多国籍の参加者が集う前衛芸術運動のグループ「フルクサス」とともに作品を制作。フルクサスの集まりに、コンセプチュアル・アートの「神」のような存在であるマルセル・デュシャンを呼ぶなど、オノ・ヨーコの人脈と社交性の高さは驚くべきものだったようです。

フルクサスのリーダー、ジョージ・マチューナスはオノ・ヨーコの作品を認めていましたが、オノ・ヨーコは独自の道をいくためフルクサスのグループには留まりませんでした。

このころのオノ・ヨーコの作品はパフォーマンスアートが中心であり、カーネギー・ホールで発表を行うなど、芸術活動は活発で成功していました。ただ、1962年から1964年の2年間、日本に帰国しパフォーマンス作品など前衛芸術作品を発表しましたが、日本はまだアートの波が遅れており、オノ・ヨーコの作品は認められませんでした。

以降、オノ・ヨーコはニューヨークを拠点に前衛芸術活動を続けます。

音楽家、ジョン・レノンとはいつどうやって恋に落ちたの?

オノ・ヨーコは現在でも前衛芸術作品を発表し続けるかたわら、「恋多き人」としても知られてます。

最初のパートナーである音楽家の一柳彗と1956年に結婚しますが、結婚が解消する前にオノ・ヨーコはアメリカの映像作家アンソニー・コックスと出会い恋に落ちます。そして一柳と離婚したのち、1963にアンソニー・コックスと結婚。ひとり娘をもうけますが、結婚から3年後の1966年に作品発表のためロンドン渡英することになります。

そうしてアーティストとして活動を続けるなか、同年11月9日に世界的に爆発的な人気を誇ったバンド、ザ・ビートルズ(The Beatles)のメンバーであるジョン・レノンと出会いました。

まだアンソニー・コックスと婚姻関係にあったにもかかわらず、オノ・ヨーコはジョン・レノンと恋に落ちます。そして1969年にコックスと正式に離婚、同年オノ・ヨーコとジョン・レノンは結婚しました。

ジョン・レノンとの出会いのきっかけは、オノ・ヨーコがロンドンで行なった個展「未完成の絵画とオブジェ」にジョン・レノンが訪れたときのこと。展示作品であった《天井の絵》のなかで、ネガティヴな表現ではなく「イエス(yes)」の文字があったことにジョン・レノンは惹かれ、二人は関係を持ち始めたといいます。

悲劇

ジョンレノン殺害
オノ・ヨーコがジョン・レノンと結婚した同年、ビートルズは解散間近であり、ポール・マッカートニーら各メンバーがそれぞれソロあるいは他のグループとともに活動を行なっていました。ジョン・レノンも例にもれず、オノ・ヨーコと二人で「プラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)」を結成。12月にファーストアルバム《平和の祈りを込めて(Live Peace in Toronto 1969)》をリリースしました。

そして翌年、1970年の4月10日、ビートルズが解散。オノ・ヨーコはジョン・レノンとの結婚で一躍世界的に有名な人物となりましたが、同時に「ビートルズを解散させた女」として世界中から非難を浴びせられるようになります。

オノ・ヨーコとジョン・レノンの関係は、お互いの音楽活動を支え合い理解しあえる良きパートナーシップでしたが、世間の風当たりは厳しいものでした。オノ・ヨーコの言動はメディアに追いかけられ、全てが記録されるような勢いでしたが、オノ・ヨーコは活動をやめることはなく、70年代からはニューヨークに戻り、平和活動家として活動を始めます。

この頃から、オノ・ヨーコは前衛芸術家としての美術作品制作よりも、音楽活動と反戦や女性解放運動など、政治運動にのめり込むようになりす。1973年にはアメリカから国外退去命令を受けるなど、活動の激しさでも知られました。

二人は別居をする期間もありましたが、関係は円満であり、息子ももうけ幸せに満ちた人生となるかと思われました。しかし1980年、ジョン・レノンが自宅のアパートの前でマーク・チャップマンにより拳銃で射殺されるという事件が起きます。オノ・ヨーコもその場に居合わせましたが、近くにいた警備員により犯人が取り押さえられたことにより助かりました。

マーク・チャップマンは現在も服役中ですが、釈放が今年の2020年だともいわれています。オノ・ヨーコとジョン・レノンとの息子、ショーン・レノンに危害を加える可能性があるため、収監期間の延期も予想されますが、いまだに緊張の走る話題です。

オノ・ヨーコの美術作品

オノ・ヨーコは美術のほかに音楽や平和活動家としての実績もありますが、美術作品はパフォーマンスが中心であり、特にジェンダーや文化の多様性といったテーマを扱ってきました。

これらのテーマは現代美術において普遍的ですが、オノ・ヨーコはそれらを最も早くから扱っていた作家の一人です。

ここから、オノ・ヨーコの代表作品について解説していきましょう。

《PAINTING TO BE STEPPED ON by Yoko Ono, 1960》

PAINTING TO BE STEPPED ON

「踏まれるための絵画」はフルクサスの影響を受けているといわれる、オノ・ヨーコの初期のコンセプチュアルアート作品です。

いびつなキャンバス片を床に置き、それを観客が踏みつけるよう仕向けた作品で、アート作品が高尚なものとして壁に飾られたものではなく、地面に踏みつけられることで完成するのだというコンセプトの、芸術に対する挑戦といえたような作品。

当時のニューヨークのアートシーンは白人で男性のアーティストが中心であり、60年代にオノ・ヨーコが関わっていたフルクサスは文化やジェンダー、人種のマイノリティーによるアーティスト集団でした。

オノ・ヨーコは女性そしてアジア人という立場をもって作品表現の基盤とし、積極的に芸術の中心地へと突き進んでいきました。これは、その時代の代表作品です。

《CUT PIECE Performed by Yoko Ono, 1964》

CUT PIECE

マリーナ・アブラモビッチのパフォーマンス作品を思い出させるこの《カット・ピース》は、実際のところアブラモビッチよりも早期に行われたもの。アブラモビッチはオノ・ヨーコを尊敬しており、影響を受けていることは確かです。

1964年に日本の草月ホールで発表されたこのパフォーマンス作品は、舞台に座っているオノ・ヨーコの衣服を観客が切り刻むという過激な内容。オノ・ヨーコが受ける肉体的苦痛を視覚化し、社会的調和と愛を訴え、またオノ・ヨーコの衣服を切り刻むという行動を観客自身が行い、また観客自身が見ることで、歴史的な視覚芸術における男性的で暴力的な欲求を明らかにする試みでした。

日本ではじめに発表されたこの作品は当時の日本ではあまり受け入れられず、同じく前衛的な作品の《グレープフルーツ》も評価を得られませんでしたが、世界中のアーティストに影響を与えました。

《GRAPEFRUIT by Yoko Ono,1964》

《カット・ピース》と同年に発表された作品《グレープフルーツ》は、詩集の形をとったアーティスト・ブックであり、また言葉による「インストラクション・アート(指示芸術)」ともみなされます。以降のオノ・ヨーコの作品にも度々引用される代表作品です。

詩は全て命令形で書かれ、「読み終えたら、この本を燃やしなさい」という文から始まり、全て鑑賞者(読み手)に「想像させる」ことを目的としています。視覚に見せるのではなく、鑑賞者の脳裏にイメージを抱かせるように作られています。

またこの作品《グレープフルーツ》は、ビートルズ解散の翌年71年にリリースされた世界的に知られるジョン・レノンのアルバムおよび楽曲、「イマジン(Imagine)」に影響を与えており、「イマジン」はオノ・ヨーコのアートの本質を抽出しているのだと考えることができます。

《CEILING PAINTING by Yoko Ono, 1966》

オノヨーコとジョンレノンの出会いのきっかけCEILING

《天井の絵(YES・ペインティング)》は、オノ・ヨーコがジョン・レノンと恋に落ちたきっかけでもある作品で、1966にロンドンの現代芸術協会に招待されインディカ・ギャラリーで行った個展「未完成の絵画とオブジェ」に展示されました。

この作品では、部屋の中央に脚立が置かれ、観客はそれに登り虫眼鏡で天井に釣り下がったキャンバスに書いてある小さな文字を見なくてはいけません。そこには「YES」という文字が書かれ、見る人の全てを肯定しています。

ジョン・レノンがこの天井に吊るされたキャンバスの「YES」のポジティブな一句に心を救われ、オノ・ヨーコに惹かれたという話は有名なもの。2人の出会いを象徴する記念碑的な作品として現在も知られています。

2019年12月から進行中のプロジェクト《ARISING- A Call》

「世界の全ての国から、あらゆる年齢の女性へ

女性であることを理由に受けた被害の告白を、あなたの目の写真を添えて call@imaginepowerarising.com までメールしてください。皆様のご参加をお待ちしております。」

これは、2019年の12月17日に公開されたオノ・ヨーコ本人のツイートです。

世界中の女性が受け続けている被害を視覚化する作品《ARISING》のための募集であり、現在もまだ締め切りがなく、誰もが応募することができます。

オノ・ヨーコのアート作品の発表は近年から活動的に再開されましたが、この一大プロジェクトは最も間近であり、インターネット上で募集されていることもあり話題を呼んでいます。

60年代からジェンダーに関して、作品を通して意見を述べていたオノ・ヨーコの作品に参加する、そして自身の体験を芸術のために「焚き上げる」機会です。その気になったら、参加してみることをおすすめします。

まとめ

世間から、オノ・ヨーコは「ジョン・レノンのパートナー」「感情的で近寄りがたいアーティスト」のように捉えられがちですが、その精力的な活動は知られざるうちに、確実に私たちに影響を与えています。

現代に生きるアーティスト、とりわけコンセプチュアル・アーティストたちにとってオノ・ヨーコはとても大きな存在であり、また女性解放運動と平和のための活動家としても世界中の人々に必要とされる人物。

特に、ジョン・レノンのようにオノ・ヨーコの言葉に救われたという人は数知れないでしょう。現在進行中のプロジェクトも、発表の時を待つばかりです。

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