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印象派の画家には「近代絵画の父」と呼ばれる人が2人います。
1人がポスト印象派のセザンヌ、そしてもう一人が最初に印象派を結成したマネです。
それにもかかわらずマネは最後まで伝統的な展覧会「サロン」での成功を目指しました。
伝統と革新、この相矛盾する2つの気質を持ち合わせたマネがどのような生涯を送ったのかその作品を通して解説します。
ブルジョアの家庭に生まれたマネの生い立ち
印象派のリーダーと言われたエドゥアール・マネ(Edouard Manet)は1832年、パリの裕福な家庭に生まれました。
父は法務省の司法官、母は外交官の娘でした。
このように裕福なインテリの家庭に生まれたマネは、少年時代に養われたブルジョアとしての気質を最後まで持ち続けることになるのです。
そんなマネが絵に関心を持つようになったのは伯父に絵画をたしなむ人がいたことが影響しています。
これに対し、父親はマネに法律家になることを望んでいましたが、マネにはその気はありませんでした。
かといって画家になれば親を心配させることになるため、海軍兵学校の入学試験を受験。
ところが2回受けて2回とも失敗したため、父から画家の道に進むことを許されました。
印象派マネの画家人生の始まり
さてこうして本格的に絵を描き始めたわけですが、最初は歴史画家のトマ・クチュールに師事しました。
クチュールはサロンに入選した「退廃期のローマ人」など名作もいくつか残している画家。
マネはこのクチュールの下で6年間絵画の技法を学びました。
ところがやがて伝統的な技法に縛られて絵を描くことに飽き足らなさを感じるように。
マネはクチュールのもとを去り、ルーブル美術館などに出かけ他の画家の作品を見ては模写するなどして自身の絵画技術を磨きました。
マネは印象派の中でもモネの他にドガとも親しかったのですが、この美術館を訪ねた時に、ドガと知り合ったと言われています。
こうして絵の技法を磨いたマネは、1859年、初めてサロンに出品します。マネ27歳の時でした。
この時は落選しましたが、1861年には出品したいくつかの作品の内2点が入選。
それが「スペインの歌手」と「オーギュスト・マネ夫妻の肖像」です。
スキャンダルになった「草上の昼食」
マネはさらにサロンへの出品を続けますが、なかなか入選を果たすことができませんでした。
1863年のサロンでも落選。
ところがその年、ナポレオン3世の呼びかけでサロンで落選した作品に再度チャンスを与えるための「落選展」が開かれました。
マネはこの落選展に「草上の昼食」を出品。これはパリの郊外の森の中でピクニックをしている男女の姿を描いたものです。
ところがこれがスキャンダルに。
それは、絵の中の裸婦が、それまでの伝統的な絵画で描かれた裸婦とは違い、娼婦であることが明白だったためでした。
伝統的な絵画では裸婦はビィーナスなど想像上の女性であり、現実の女性が裸婦として描かれることは許されていなかったのです。
この時の評論家エルネスト・シェノーは「草上の昼食」について次のような批評を残しています。
デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう。[中略] ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちにかこまれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。[中略] 彼は俗悪な趣味の持ち主だ。
ではなぜマネは娼婦を描いたのでしょうか。
それは、19世紀半ばのフランスは近代化が進んでおり、それまでの伝統的な社会とは異なるものが数多く出現していました。
娼婦はそのうちの一つ。マネはそうしたパリの現実を自身の絵に表現しようとしたのです。
「オランピア」でさらに酷評が続く
マネが上述のような近代フランスの現状を描いた作品にはもう一つ「オランピア」があります。
オランピアとは当時の娼婦の間でよく使われていた源氏名。
マネの「オランピア」は、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を基調として制作したものです。
「ウルビーノのヴィーナス」は題名の通りヴィーナスを描いたもので、「裸婦は神話の女神でなければならない」という当時の画壇の鉄則に従って描かれていました。
ところがマネの「オランピア」は明らかに娼婦。
それはベッドに横たわる女性が黒いリボンの首飾りを付け、腕輪をはめ、サンダルを履いていることでわかると言われています。
らに伝統的な絵の技法では遠近法が使われていましたが、マネのこの絵にはその技法が使われておらず、奥行きが感じられません。
こうしたことが批判の対象になりました。
オランピアは1865年のサロンに出品されましたが、ここでまた酷評を受けることになります。
さすがのマネもこの時は意気消沈したと言われ、パリを逃れスペインに。スペインで17世紀の画家ベラスケスの作品に触れ影響を受けます。
サロンへの執着と印象派との関係
スペインで気分一新してパリに戻ったマネは、後に印象派と呼ばれるモネやルノワールと知り合いになります。
そしてそうした画家達と一緒に「バティニョール派」というグループを結成。
上の絵は伝統絵画の画家で後に印象派の画家たちと交流のあったアンリ・ファンタン・ラトゥールの作品ですが、ここではバティニョールのアトリエに集まったメンバーが描かれています。
絵筆を持っているのがマネ。リーダー的な風格が漂います。
マネを筆頭とするこのグループの若手の画家達は、しばらくすると、バティニョール派から離れ別のグループを結成します。
これが印象派でした。
マネはこの新しいグループ、つまり印象派のリーダーとみなされていました。
印象派の中でマネは特にモネとドガと親しく付き合っていたと言われています。
その一方で、マネはセザンヌの技法が好きではありませんでした。
セザンヌはコテを使って絵を制作することもあり、マネはそうしたことに不満をいだき、だんだん印象派から離れて行くようになりました。
実際マネは印象派展に一度も出品していないのです。
ただ、セザンヌの技法を批判したのは、印象派展に参加しないための口実であり、マネが印象派から離れて行った本当の理由は、サロンで成功したいという野望を消すことができなかったからだと言われています。
ブルジョアの家庭で生まれたマネは、最後までブルジョアとしてのスタンスを捨てきれなかったのでしょう。
印象派の特徴が現れているマネの唯一の作品
では、美術史上、なぜマネは印象派の画家として考えられているのでしょうか。
れはマネの残した作品の多くが、それまでの伝統的な絵画の概念をくつがえすようなモチーフを取り上げ、遠近法を用いない新しい技法を用いて描かれているからです。
そしてこのことが理由で、印象派展に一度も出品したことのないのにも関わらず、マネは当時の批評家たちから印象派のリーダーと考えられていたのです。
これがマネが「近代絵画の父」と呼ばれる所以です。
ただ、マネは親しくしていたモネに誘われて一度だけ戸外制作を行ったことがあると言われています。
その作品が「アルジャントゥイユ」。使われている色彩やストロークに印象派らしさが現れており、マネの作品の中では唯一「印象派」と言えるものです。
マネのその他の作品
笛吹き少年(The Fifer)
マネの傑作「笛を吹く少年」はシンプルでありながら、笛を吹く少年の様子を端的に表した作品です。
ここで注目したいのが少年の帽子、上着、ズボンの線、そして靴に使われた黒の色です。
伝統的な絵画ではチューブから出したような黒は使われないのが原則でした。
そのため、マネのこの作品で用いた黒は強烈で、そのためにかえってシンプルな印象を与えます。
この黒の使用は日本の浮世絵の影響を受けたものと考えられています。1866年制作。パリのオルセー美術館所蔵。
鉄道(Railway)
パリのサン・ラザール駅を描いたものですが、「鉄道」というタイトルなのに汽車の姿が見当たらない不思議な作品。
柵の向こうに見える白い煙で、何とか駅であることがわかります。絵の中には親子らしい2人の人物が描かれています。
伝統的な絵画では絵の中の人物はお互いに寄り添ったり目を見つめ合ったりし、その感情がほとばしるように描かれていますが、マネのこの作品では2人の間に距離があり、しかもお互いに何の感情も示していません。
さらに、向かって右下にはぶどうが見えます。このぶどうが何を意味するのかも不明です。1873年制作。ワシントンの国立美術館所蔵。
フォリー・ベルジェールのバー(A Bar at the Folies-Bergere)
パリのナイトクラブの様子を描いたこの作品は、マネが他界する1年前の1882年に制作したものです。(マネは左足に壊疽が広がり、その足を切断したのですが術後の経過が悪く1883年に51歳で亡くなりました。)
中央に立っているバーメイドの後ろには鏡があり、その鏡にナイトクラブの様子が映っています。
当時のパリのナイトクラブというのは売春を兼ねた所であり、このバーメイドも実は娼婦で、そのためにうつろな顔をしていると言われています。
この作品はマネの最後の傑作として知られています。ロンドンのコート―ルド美術館所蔵。
日本でマネの絵画が鑑賞できる美術館
ひろしま美術館
- バラ色のくつ(ベルト・モリゾー)
- 灰色の羽根帽子の婦人
アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)
- オペラ座の仮装舞踏会
- 自画像
国立西洋美術館
- ブラン氏の肖像
- 花の中の子供(ジャック・オシュデ)
村内美術館
- スペインの舞踏家
東京富士美術館
- 散歩
茨城県近代美術館
- 白菊の図
ポーラ美術館
- ベンチにて
メナード美術館
- 黒い帽子のマルタン夫人
大原美術館
- 薄布のある帽子をかぶる女
まとめ
印象派のリーダーだったと考えられている「フランスの画家エドゥアール・マネ。
実際には、マネはブルジョアの家庭に生まれ育ち、そのことにより、マネが生涯目差したものはパリの伝統的な展覧会サロンで成功することでした。
ところが、それまでの伝統的なモチーフや絵画技法とは異なる革新的な要素を取り入れたマネの作品は、当時のパリの画壇から酷評を受け、スキャンダルさえ巻き起こしました。
こうしたマネの革新的なテーマや技法は後の世で高く評価され、そのためにマネは「近代絵画の父」と呼ばれるようになったのです。