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ドイツの彫刻家、クリスティアーネ・レーアは、タンポポの綿毛などの小さな植物の種子や動物の毛など、自然界の微小な素材を手作業で組み合わせた立体作品やインスタレーション、版画作品を制作するアーティスト。
クリスティアーネ・レーアが使う素材は私たちの身近にあるものですが、見たこともないような角度でその生命のかたちの美しさを魅せてくれます。
儚く、静かな魅力に満ちた世界を見せるクリスティアーネ・レーアのプロフィールや作品、画集などの関連書籍を紹介しましょう。
目次
クリスティアーネ・レーアのバイオグラフィー
クリスティアーネ・レーア(Christiane Löhr)は1965年、ドイツ中西部のウィースバーデンに生まれ、ボン大学でエジプト学や考古学、歴史学などを学びます。アートに関してはマインツ大学で美術教育学を学び、デュッセルドルフ美術大学ではギリシャ出身の芸術家ヤニス・クネリスのもとで芸術学の最高学位(マイスター・シューレリン/Meister Schülerin)を取得しました。
このように、クリスティアーネ・レーアはアーティストとして芸術を学ぶ前に、考古学や歴史学などの「過去」にまつわる学問を習得しており、アートのみを習得した一般のアーティストとはやや異なる出自であることがわかります。
クリスティアーネ・レーアは1960年代に起こった、抽象表現を極限まで切り詰めたミニマル・アートや、人と「非芸術的な」自然環境や物質との関係を可視化させる、イタリアから発した美術運動であるアルテ・ポーヴェラに影響を受け、幼少期から慣れ親しんだ身近な自然に対する真摯な視線をもって作品制作を続けています。
クリスティアーネ・レーアの作品は版画作品のほか、植物の種子や馬の毛などの生物の素材を使っており、儚く壊れやすい彫刻作品やインスタレーションですが、日本を含めた世界中のアートコレクションに所蔵されています。
日本で行われた展示は2013年の東京のギャラリー、タグチファインアートでの初個展、また個展「12プリンツ (12 prints)」をはじめ、資生堂ギャラリーのグループ展「せいのもとで(lifescape)」、2015年にはヴァンジ彫刻庭園美術館での展覧会「宙をつつむ」が開催されました。
クリスティアーネ・レーアは現在ドイツのケルンとイタリアのプラトを拠点として制作活動を行なっており、いま世界的に注目を集めているアーティストです。また東京のギャラリー、タグチファインアートでは取扱作家として毎年個展が開催されるため、クリスティアーネ・レーアの作品が気になった人は常に最新情報をチェックしておきましょう。
ドイツのマイスター制度とは
クリスティアーネ・レーアがドイツのデュッセルドルフ美術大学で取得した「マイスター・シューレリン」という資格ですが、これは美術大学における最高学位である博士号と同様の資格となります。ただし、博士論文を提出するのではなく、芸術作品の提出、発表による取得制度となるため、学問における美術の博士号とはやや異なっています。
ドイツでは「マイスター制度」という資格制度(高等職業能力認定制度)があり、マイスターを取得するということはある分野のスペシャリストとなることを意味します。マイスター・シューラーおよびシューレリンとは芸術家の最高学位ですが、他には手工業のスペシャリストであるマイスター・カウフマン(Kaufmannsmeister)などが知られています。
ドイツは「ものづくりの国」といわれているほど優秀な職人を世界中に輩出した国であり、そのあらゆる道のスペシャリストを生み出す道のりも伝統的で、かつシステマチック。クリスティアーネ・レーアのように様々な学問を習得したうえで最終的に芸術学の専門的な研究ができたのも、ドイツの優れた教育制度の賜物といえるでしょう。
ちなみに、日本人でドイツのマイスター・シューラーおよびシューレリンを取得したアーティストはイケムラレイコ、土橋素子などが挙げられます。
自然界の素材を使った儚く美しい作品
クリスティアーネ・レーアが制作するアート作品は、はたんぽぽの綿毛やアイビーなど植物の種子、馬のたてがみの毛など、自然界の細やかな素材を使った、極小の空間を取り込んで包括する彫刻作品やその作品群で構成されたインスタレーション、また植物をモチーフにしたドローイングです。
クリスティアーネ・レーアは、触れると崩れてしまうほどに細かで儚くも、建築的で強固で合理的に自然界に適応する植物の構造、そしてそれらが内包する微細な空間に目を向けました。ギャラリーや美術館の展示室のなかで、その自然界の素材そのものが持っている機能美や、私たちが普段目を向けないほど些細で美しい世界を増幅させるようにして表現しています。
そのクリスティアーネ・レーアの作品について、いくつか紹介します。
Kleiner Haarkelch (little hair chalice)
この2006年に制作された作品の《Little Hair Chalice》という英語のタイトルは「小さな毛の聖杯」と日本語に訳すことができます。
小さな網カゴのようなものと細く散った動物の毛を組み合わせたこの作品は、クリスティアーネ・レーアがたびたび作品に使用する馬のたてがみの毛を使っています。
人の髪の毛よりもやや太い馬の毛は、触角のように外敵から身を守るためのセンサーの役割をしていること、また馬という生き物の美しいパーツの中のひとつでもあります。
おそらくこの「聖杯」に少しでも近づいたり触れようとすると、風でこの毛が揺れ動いたり、まるで聖杯に「知覚されてしまう」かのような感覚を受けるでしょう。触れてはいけないものの尊さや緊張感を感じられるような作品です。
Löwenzahnkissen (dandelion cushion)
クリスティアーネ・レーアの作品といえばタンポポの綿毛を使ったものですが、たくさんのタンポポの綿毛のみを集めて作られたこの《Dandelion Cushion》の彫刻作品もクリスティアーネ・レーアの代表作品のひとつです。こちらは2009年に制作されました。
乾燥させたタンポポの綿毛をドーム状に積み重ねた、あるいはひとかたまりにしたこの彫刻作品は、一般的に知られるロダンのようなステレオタイプの「彫刻」とは異なるもの。
クリスティアーネ・レーアの作品は誰が見てもため息の出るような、決して侵してはいけない尊い世界観のあるものですが、彫刻といわれてもあまりピンとこない人もいるでしょう。
そこでヒントとして、古典から現代アートの「彫刻」作品を把握するコツをお教えするとしたら、それはその彫刻作品だけを見るのではなく、その周りの空間も一緒に「見る」ことです。
このクリスティアーネ・レーアの《Dandelion Cushion》の彫刻作品として優れている点は、彼女の師匠であるヤニス・クネリスも関わったあるて・ポーヴェラの手法を基礎として、タンポポの綿毛という、自然界にあってもともと構造的に「空間」を取り入れている自然素材を、ほとんど未加工のまま集めて形にしているところ。
タンポポなどの綿毛の種子は、そのままで空気や風など空間の要素を持っているもの。それを彫刻作品としてかたちにするクリスティアーネ・レーアは、ただ心地よくやさしい作品を作るだけではなく、アカデミックなアートの世界においても高く評価される人物なのです。
陽の光に透けるタンポポの綿毛の儚さ、そして生物としての合理性、機能性を圧倒するほど目の前に提示したこの作品をはじめとしたクリスティアーネ・レーアの綿毛の作品はまた、私たちほとんど全ての人の、幼少期に自然と触れ合った甘い記憶を思い起こさせるかのようです。
Kleine Fläche (little surface)
クリスティアーネ・レーアの2007年制作の《Little Surface》という作品もまた、植物の綿毛を用いた作品。
この《Little Surface》に使われた綿毛は、前述の作品《Dandelion Cushion》のようなタンポポではなく、綿毛の種子単体で高さ5センチほどもある大きな種子が用いられています。
展示台からまっすぐに立ち上がる綿毛の種子は、どこかバレエの舞台に立つバレリーナのようでもあり、立木の林のようにも例えられます。植物の構造をミニマルに紐とくことで、ごく小さな彫刻作品ですが視点によっては巨大な世界にも見える作品です。
生物をひたむきに観察するクリスティアーネ・レーアが何に目を向けているのか、これらの作品に触れることでだんだんとわかってくるでしょう。
Kleine Kuppeln (little dome)
この《Little Dome(小さなドーム)》は2014年の資生堂ギャラリーのグループ展「せいのもとで」に展示されました。
「全てのものは大地の恵みから生まれる」という意味の、資生堂の「資生」という言葉からテーマの連想されたこのグループ展では、クリスティアーネ・レーアのほかLEDの作品で知られる宮島達男や生け花作家の珠寳が参加し、それぞれ個性の異なる作家たちのコラボレーションとなりました。
クリスティアーネ・レーアが出品したこの《小さなドーム》という作品のテーマは、この作品だけではなく他にも《二つの小さなドーム》など、いわゆるシリーズ展開のような形で複数制作されています。
ごく小さな草の茎や芽を台座の上にドーム状に配置したこれらの作品は、息を吹きかければ飛んでいってバラバラになってしまいそうな儚さと、同時にびくともしなさそうな構造のしたたかさが感じられます。
ウェディングドレスを着た花嫁のヴェールのようでもあり、これらの彫刻のかろやかな存在感は見れば見るほどとても不可思議な感覚を覚えます。
クリスティアーネ・レーア個展「12プリンツ」レビュー
2019年の1月26日から3月23日にクリスティアーネ・レーアの個展「12プリンツ」が東京都・日本橋のタグチファインアートで開催されました。
2017年に開催された佐倉市美術館のグループ展「カオスモス5:一粒の砂に世界を見るように」と同じくタグチファインアートでの個展「クレッシェンド」に続く日本国内の展示ですが、この「12プリンツ」では彫刻作品ではなく、初公開の12点の《無題》のタイトルを冠する版画作品を中心とした展覧会。
「12プリンツ」の名の通り、12点の版画は東京都、調布市の版画工房「エディションワークス」でクリスティアーネ・レーアが滞在制作して手がけたもの。エッチング、アクアチントや、カーボランダム技法などいった異なる3種の技法を使い、それぞれ4点づつ制作されました。
それぞれの版画技法は、クリスティアーネ・レーアがアートを通して見つめてきた植物の構造に適応するように選択され、植物の構造、あるいは私たちの体の中のどこかミクロの風景を想像させられます。
広々とした空間にひっそりと壁面にかけられた版画と、アクリルのケースに入った植物の作品のあるギャラリー内は、どこか教会や寺院、もしくは墳墓の中に入ったように静謐な世界のようであり、人間である自分が何か異質な存在に感じるほどでした。
クリスティアーネ・レーアの作品は植物に対する関心が中心ではなく、それらの素材の持つ数学的な構築性や秩序を追求することにあります。アルテ・ポーヴェラは日本で独特に生まれた「もの派」にも影響を与えた芸術運動であり、クリスティアーネ・レーアの作品にも同様の意識を感じ取ることができます。
クリスティアーネ・レーアの関連商品・書籍
クリスティアーネ・レーアの作品世界に魅せられた人は、その画集や写真集などを手に入れたいと思うことでしょう。
国内で手に入る画集には、2015年にヴァンジ庭園美術館で開催された展覧会「クリスティアーネ・レーア 宙をつつむ」の図録が国内で唯一発売されたものとなっています。
そのほかの写真集や書籍、図録などはドイツの出版社の著作が中心であるため海外から取り寄せという形で入手可能であり、Amazonでは唯一「Christiane Löhr: Tendersi dentro」という図録が販売されています。
クリスティアーネ・レーアのファンにとっては、国内でもこれらの海外の図録の販売を待ち望むばかりです。
まとめ
クリスティアーネ・レーアの生物の構造にフォーカスした作品は繊細であり、かつ生命力のしたたかなかたちを目にすることができます。
現代アートの中でもクリスティアーネ・レーアの作品は非常に純粋で悪意のない、心の洗われるような世界観でもあります。また身の回りにあるなんでもない素材をもって、見たこともないようなものを作り上げるクリスティアーネ・レーアのような視点こそアートの根源的な力であり、日本の美術作家も密かに影響を受けとるアーティストでもあるでしょう。
クリスティアーネ・レーアの作品を見たあとには、道端に生えているタンポポの綿毛や何気ない植物のひとかけらさえ、何か大きな秘密をもっているかのように感じられます。人がアートに触れて、日常の何かの見方が変わってしまうことというのは、アーティストに共通するひとつの目標、あるいは野望でもあるのです。