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美しいピエタピエタ像、バチカンのシスティーナ礼拝堂のフレスコ画など、私たちが教科書や美術の本でよく目にする作品。それらは、ミケランジェロの手から生まれました。ミケランジェロはまさに、レオナルド・ダヴィンチ、ラファエロと並ぶルネサンスの顔といってよいでしょう。ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリアルネサンスの主人公の1人で、日本でも最もよく知られた西洋の芸術家の1人です。
レオナルドよりも多作で、ラファエロよりも長命であったミケランジェロ、後世に与えた影響は計り知れません。ゴッホやカラヴァッジョと並んで、映画の主人公にもなりました。
ミケランジェロの代表的な作品を解説していきます。
ミケランジェロとはどんな人であったのか
『バンディーニのピエタ』1547-1555年 226cm フィレンツェ ドゥオーモ付属博物館所蔵
後方にいるニコデモはミケランジェロの自画像という説も。
ミケランジェロはその生前から、同時代の人から非常に高い評価を得ていた芸術家でした。彫刻家であり画家であり建築家であり、また詩人でもあります。その多才ぶりはまさに、ルネサンスという時代が生み出した「万能の人」に恥じないものでした。ミケランジェロが制作したピエタ像、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂のフレスコ画、ダビデ像など、世界史や西洋美術史の教科書に登場する作品を数多く世に送り出したのです。89歳という長寿を全うし多数の芸術品を残したミケランジェロは、美術史の世界のみならず歴史の中に大きな足跡を残したアーティストであったといえるでしょう。
女性に人気のあるラファエロとは対照的に、その男性的な作風は熟年男性に人気があるという特徴があります。また、ひじょうに短気な性格の持ち主であり自負心も強く、時にはローマ教皇とも口争いをしたというエピソードも残しています。レオナルド・ダ・ヴィンチに対してはライバルと意識も強かったようです。
その死から500年近く、ローマでは今でも心から愛されている芸術家の1人なのです。
ミケランジェロの若き日々
『階段の聖母』 1491年頃 56.7×40.1cm フィレンツェ カーザ・ブオナローティ美術館
ミケランジェロ・ブオナローティは、1475年3月6日、トスカーナ州アレッツォ近郊のカプレーゼに生まれました。ミケランジェロは、5人兄弟の次男です。父のルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ブオナローティ・シモーニは小貴族で、近隣の町の長官などをしていました。しかし経済的には裕福とはいえない環境であったようです。
ミケランジェロが生まれて間もなく、一家はフィレンツェに移住します。6歳で母を失ったミケランジェロですが、その後はルネサンスの大輪の花とうたわれたフィレンツェで多感な時期を過ごすことになりました。ミケランジェロの幼少期にかれにイタリア語を教えた教師は、ミケランジェロの画才を見抜いて絵を描くことを推奨したといわれています。
1487年、12歳のミケランジェロはドメニコ・ギルランダーイオの工房に弟子入りします。当時のギルランダーイオの工房では、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のフレスコ画を製作中であり、ミケランジェロも確実にこの作品の制作過程を目にしていたようです。
また、当時のミケランジェロが描いたジョットのフレスコ画を模写したデッサンやマザッチョの作品の素描も残されています。
ミケランジェロの最初の作品とされているのは、1491年頃制作の『階段の聖母』です。ドナテッロの作品にインスピレーションを得てミケランジェロが作成したといわれるこのレリーフは、現在はカーザ・ブオナローティ美術館に所蔵されています。
また、10代のミケランジェロは、ボローニャに残る『ろうそくを抱く天使』という若々しい作品も残しています。
『ろうそくを抱く天使』1494-1495 51,5 cm ボローニャ サン・ドメニコ大聖堂
ローマ滞在とバッカス像
10代から20代のミケランジェロは、絵画の分野よりも彫刻家としてその名を知られるようになります。とくに、メディチ家のロレンツォ・ディ・ピエールフランチェスコはミケランジェロの才能にほれ込み、後援を惜しみませんでした。このロレンツォ・ディ・ピエールフランチェスコ・メディチが、ミケランジェロのローマ行きを強く推進しました。というのも当時、ミケランジェロが制作した彫刻『眠れるキューピッド』が枢機卿の1人によって購入され高く評価されていたためです。この枢機卿によって、22歳のミケランジェロはさらに『バッカス』の注文を受け制作。
『バッカス』 1497年 203 cm フィレンツェ バルジェッロ国立美術館
ところが、このバッカス像は枢機卿によって受け取り拒否されています。しかし、バッカス像は富裕な銀行家のヤコポ・ガッリに引き取られました。このガッリが、有名な彫刻『ピエタ像』制作のきっかけを作ることになったのです。
ヴァチカンの至宝『ピエタ』
『ピエタ』 1499年 174×195×69cm ヴァチカン サンピエトロ大聖堂
今もヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に残る『ピエタ』は、ミケランジェロが20代前半で作り上げた作品です。歴史に残る彫刻作品の中で、世界で最も知られた作品のひとつ。銀行家ガッリが仲介をとり、フランス人枢機卿の発注で制作されました。
ミケランジェロは、この作品の制作のためにわざわざ大理石の産地カッラーラに赴き、大理石を選別しました。1499年に公表された『ピエタ』は、当時も大旋風を巻き起こしました。マリアが若すぎるという意見があったものの、大半は賛美の嵐でした。あまりに見事な作品であったために、作者はミケランジェロではないという噂まで流れました。激怒したミケランジェロは、聖母マリアのマントの紐に
MICHEL.A[N]GELVS BONAROTVS FLORENT[INVS] FACIEBAT ( フィレンツェのミケランジェロ・ブオナローティ作 )
彫りこみました。怒りのあまり、自分の名前のEを入れ忘れたというエピソードまで残っています。
1779年からサン・ピエトロ大聖堂の身廊に置かれている『ピエタ』は、1972年に襲撃されて大きな被害を受けました。現在は、特製のガラスによって守られています。
ルネサンス美術のエンブレム『ダビデ』
『ダビデ』 1501-1504年 517×199cm フィレンツェ アカデミア美術館
ミケランジェロは、ルネサンス時代のエンブレムともいうべき作品を数多く残していますが、そのひとつが彫刻作品『ダビデ』です。
今、フィレンツェのシニョーリア広場に置かれているのはレプリカで、本物はアカデミア美術館に所蔵されています。ダビデ像の設置をめぐっては、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、フィリッピーノ・リッピ、アンドレア・デッラ・ロッビアなどの天才たちが集い、議論をしたという逸話が残っています。当初は、ミケランジェロの意見が通り、シニョーリア広場に設置されていました。1872年に、広場から美術館に移されています。
ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』が女性的な美の正典とすれば、ミケランジェロの『ダビデ』は男性的な理想美の体現といったところ。
20代後半のミケランジェロの渾身の作といえるでしょう。
マニエリスムの予兆『聖家族』
『聖家族』1503-1504年 120×120cm フィレンツェ ウフィッツィ美術館所蔵
大作『ダビデ』を製作していた期間、ミケランジェロは美術史上重要なもうひとつの作品を残しています。
『ドーニの聖家族』と呼ばれるこの作品は、ラファエロも当主の肖像画を残したドーニ家からの注文とされています。ミケランジェロ自身が、額までデザインしたといわれる『聖家族』は、その後に来るマニエリスムの予兆として重要な作品とみなされてきました。
ピラミッド型に人物が構成された聖家族、その中でも体をひねるようにして描かれた聖母マリアが斬新的です。
システィーナ礼拝堂の『天地創造』と『最後の審判』
『天地創造』(一部) 1508-1512年 4093×1341cm ヴァチカン システィーナ礼拝堂
観光客が押し寄せるヴァチカン美術館の目玉は、なんといってもシスティーナ礼拝堂でしょう。
礼拝堂には、当時のトップレベルの芸術家たちが残した壁画が残ります。そして、『天地創造』の天井画と、『最後の審判』の祭壇画を残したのがミケランジェロであったのです。
ただし、この2つの作品の制作年代には大きな差があります。『天地創造』を描いたとき、ミケランジェロは30代半ば、『最後の審判』を描いたときには還暦前後でした。
血気盛んな30代のミケランジェロは、ときの教皇ユリウス2世に強要されて『天地創造』を描いたというエピソードがあります。また、天井画ゆえに、足場に横になり仰向けのまま描き続けるという体力的にもハードな仕事でした。神とアダムが指を近づけるシーンは、スピルバーグ監督の映画『E.T』にもインスピレーションを与えました。
いっぽう、『最後の審判』はミケランジェロが晩年に近づくのと比例して、人文主義的な成熟を十分に感じさせる迫力ある作品。
『最後の審判』 1536-1541年 1370×1200 cm ヴァチカン システィーナ礼拝堂
『天地創造』も『最後の審判』も、西洋美術史上の最高傑作のひとつに数えられています。
ミケランジェロが生涯に残した4つの『ピエタ』
『ロンダニーニのピエタ』 1552-1564年 195cm ミラノ スフォルツェスコ城美術館所蔵
ミケランジェロのピエタといえば、なんといってもヴァチカンに残る彫刻が有名です。
実際には、ミケランジェロはヴァチカンのものも含めて4つのピエタを残していることがわかっています。ミケランジェロが残したのは、『バンディーニのピエタ』『パレストリーナのピエタ』そして遺作となった『ロンダニーニのピエタ』です。
晩年のミケランジェロは、発注を受けて制作するのではなく、自らが作りたいものを彫るというスタイルで制作する作品が増えました。『バンディーニのピエタ』は、ミケランジェロが敬愛していたローマの貴族ヴィットリア・コロンナが亡くなった後に作り上げたものです。
現在はミラノのスフォルツェスコ城美術館に残る『ロンダニーニのピエタ』は、90歳近いミケランジェロが残した最後の作品。「未完」という説もあれば、深い精神性を感じる作風から「完成作品」とする説もあり。実際にそれを眺めれば、解説の必要もないかもしれません。いずれにしても、ミケランジェロの孤高の精神を実感できる美しい彫刻です。
ミケランジェロのその他の作品
『モーゼ』ユリウス2世の墓所の一部 1515年頃 ローマ サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会
「石の内部に作品が秘められている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ」という名言を残したミケランジェロ。10代から活躍し始め、90歳近くで亡くなるまでその活動を止めませんでした。
解説した作品以外にも、ローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の教皇ユリウス2世の墓所の彫刻、カンピドーリオ広場の設計、サン・ピエトロ大聖堂の設計、ファルネーゼ宮殿の設計、フィレンツェのメディチ家礼拝堂の彫刻、ラウレンツィアーナ図書館の設計など、その活躍は彫刻や絵画にとどまらず、設計や都市計画にも及びました。また、数多くのデッサンや素描も残しています。こうした数々の作品は、ルーベンスをはじめとするのちの芸術家たちにインスピレーションを与え続けました。
ミケランジェロが活躍したローマで、ことのほかミケランジェロが愛されるのは、町のあちこちに彼の息吹を感じることができるからでしょう。