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印象派の画家の中で最年長者であったカミーユ・ピサロは、モネと共に印象派展を創設した画家。
ロマン主義的な技法で始まったピサロの絵画制作は、印象主義を経て点描画などの新印象主義へと移行していきました。
ピサロはまた、生涯を通して画家仲間たちを励まし支え続けた人格者でもありました。
そんなピサロの画家としての生涯と彼の主要作品のいくつかを解説します。
目次
カリブ海で生まれたピサロの生い立ち
「カラカスのピサロとフリッツ・メルビューのアトリエ」1854年
印象派を代表する画家の一人カミール・ピサロ(Camille Pissarro)は、1830年にカリブ海のセント・トーマス島で生まれました。
当時デンマーク領だったこの島は、印象派発生の地であるフランスからは遠く離れていましたが、この島で金物屋を営んでいたピサロの両親はフランス出身のユダヤ人。
フランスのことを忘れないようにという両親の意向から、ピサロは12歳から17歳までフランスに留学していました。
留学後は、またこの島に戻り父の手伝いをすることに。
両親の家業は順調にいっており一家は裕福な生活を送っていましたが、ピサロはそうしたブルジョア的な生活に満足せず、やがて絵に関心を持つようになります。
その時に出会ったのが画家のフリッツ・メルビューでした。
メルビューはピサロをベネズエラに誘い二人は約2年間そこで生活します。
ここでの滞在をきっかけに、ピサロは絵の道に進むことを決意。1855年、両親を説得しパリへ移住します。ピサロ25歳の時でした。
パリで印象派の画家たちに出会う
ピサロ(右端)のポントワーズの家に集まるセザンヌ(ベンチ上)ら画家仲間。
ピサロが移り住んだ当時のパリの画壇は写実主義やロマン主義が主流となっていました。
そうしたスタイルを得意としていた画家の中でピサロが大きな影響を受けたのが、コローやミレーです。
モノクロに近い色彩を使った暗い雰囲気の漂う絵画を制作していました。
1859年、パリの有力美術展覧会である「サロン」に始めて出品し入選を果たします。
ところがそれ以降、この展覧会で入選することはありませんでした。
その上にピサロはサロンが定めている多くの絵画制作規制にうんざりし始めていました。
そんな中、印象派の画家がパリの画壇に勢力を及ぼすようになり、ピサロも関心を抱き始めます。
その時に出会ったのがモネ、ルノワール、シスレー、セザンヌなどでした。
とくにセザンヌとは親しくなり、後にピサロは、セザンヌ自身に「ピサロの弟子」と言わせるほど大きな影響を与えました。
印象派が集まったルーブシエンヌ
印象派の土地を旅するルーヴシエンヌの村の通りの再現。
このように印象派の影響を強く受けるようになったピサロは1869年からパリ郊外のルーブシエンヌに移り住みます。
そこで、クロード・モネを初めシスレー、ルノワールらの印象派の画家たちと野外制作をしながら印象派の画家としての力を磨いていきます。
そして1874年、第1回印象派展を開催。
印象派展は1886年に開かれた展覧会を最後として全部で8回開かれました。
ただし、印象派展は3回目を迎えた後、それまで参加していた画家たちの間で意見が対立し、ルノワール、シスレー、セザンヌ、モネなどがこのグループを脱退していきました。
ピサロはこれら8回の印象派展に毎回出展した唯一の画家でした。
ピサロはまた、こうした画家たちの中で最年長者であったこともあり、年下の画家たちへの配慮を忘れず、それでいて前面に出て指導するような態度はとらず、いつも背後で支えていた人物だったと言われています。
このように謙虚な生き方をしたピサロでしたが、絵画においては大胆で革新的な態度を忘れませんでした。
ピサロの各時代の作品を見ると、こうしたピサロの画家としてのチャレンジ精神が良く分かります。
ピサロの作風の変化
ピサロの作品を見ると、最初は上述の通り、ロマン主義・写実主義であったコローの影響を受け、モノクロに近いような暗い色彩を使った作風が特徴になっています。
それが時代が進むにつれて印象派独特の明るい色彩を使うようになり、表現も完全な写実主義から印象派の影響を受けた絵画へと移行していきます。
それでも、例えばモネの筆運びがかなり大まかであるのに対し、ピサロの描写はどちらかというと写実的です。
ピサロはまた、スーラが得意とした新印象派の技法の一つである点描技法による作品をいくつか残しています。
ところが、ピサロは次第にこの点描技法に限界を感じるようになり、1890年にスーラが他界したのをきっかけに、それ以降点描画を制作することはありませんでした。
ピサロが扱った最も主要なモチーフは風景です。その中でもミレーにあこがれていたピサロは、農村の風景を描いた作品を数多く残しています。
フランスの美術評論家であったテオドール・デュレはピサロの農村の風景画を賞して次のような評価をしています。
あなたには、シスレーの装飾的な感覚も、モネの空想的な眼もないが、彼らにはないものがあります。それは、自然に対する親密で深い感情や筆遣いの力強さであり、その結果、あなたの描く美しい絵には全く決定的な何かがあるのです。
ーテオドール・デュレ
風景画と並んでピサロが多くの作品を残しているのが都市の風景画です。
ピサロは1893年に慢性の目の病気のため、野外制作が困難になり、パリ、ルーアンなど4つの都市でホテルに滞在し、都市の風景を描くようになりました。
この時に描いた作品の中で最もよく知られているのが、「モンマルトル大通り」をモチーフにした絵画です。
また、この同じ時期、印象派の他の画家達がそうであったように、ピサロも日本の浮世絵の影響を強く受けたと言われています。
それは黒を絵の中に取り入れていることや、風景を高いところから見下ろす俯瞰構成の中に見いだすことができます。
印象派としてのピサロの代表作
ピサロは生涯を通して油彩画を1316点、版画を200点以上残しています。これらの作品の中から時系列的にピサロの画風が良く分かる作品をいくつか紹介します。
アンティル的風景、セント・トーマス島(Antilian Landscape, St. Thomas)
パリに移り住むようになったばかりの1856年制作の作品。
ピサロの出身地であるカリブ海のセント・トーマス島の風景を描いたもの。作品の題名になっているアンティルとはセント・トーマス島がある地域の諸島の名前(ただし現在セント・トーマス島はバージン諸島に属している)。
この作品にはロマン主義・写実主義の特徴である暗い色彩による表現が色濃く見られます。
「印象派のピサロ」からは想像できない貴重な作品の一つ。個人による所蔵。
ポントワーズの隠れ家(L’Hermitage at Pontoise)
ピサロが17年間住んだフランスのポントワーズの風景を描いたもの。
縦151、横200という大型の作品でサロンに出品されましたが、入選しなかった作品です。
ピサロの絵画の中では色彩が最も鮮やかな作品の1つ。
明らかにロマン主義から離れ、印象派の影響を受けていることが分かります。
ただし、この作品でも描き方は写実主義を取っているところにピサロらしさが現れていると言えます。
1867年制作。ニューヨークのグッゲンハイム美術館所蔵。
花咲く果樹園、ルーヴシエンヌ(Orchard in Bloom, Louveciennes)
1874年に開かれた第1回印象派展に出品されたピサロの5点の作品のうちの1つ。
彼の出品リストの筆頭に挙げられていた作品でもあります。
普仏戦争が勃発しピサロは家族でロンドンに疎開していましたが、この作品は戦後ルーヴシエンヌに戻ってきてから間もなくして描いた1872年の作品。
花咲く果樹園というテーマの中に、終戦の喜びがよく表現されています。
技法的には筆運びや使っている色彩に印象派の特徴が見られます。ワシントンの国立美術館所蔵。
赤い屋根、村のはずれ、冬(Red Roofs, Corner of a Village, Winter)
1877年に描いたポントワーズのサン・ドニの丘にある赤い屋根の家を描いた作品。
白壁に赤い屋根の家を背景に冬枯れの木が立ち並ぶ様子が力強く表現されています。
この木の配置や木と木の間から背後の風景が見える構成、そして黒い輪郭線などは、日本の浮世絵の影響を受けたものとみられます。
前述の「ポントワーズの隠れ家」がリアリズムに属するのに対し、この「赤い屋根、冬の効果」には印象派の技法が見られます。
パリのオルセー美術館所蔵。
エラニーの干し草収穫(The Harvest of Hay in Eragny)
ピサロの点描技法が良く現れている作品。
1884年から住み始めたポントワーズ近郊のエラニーの農村風景を描いたもの。
制作は1887年。写実的な描写がされているものの、その表現はシンプルで人物の表情などは表現されていません。ゴッホ美術館所蔵。
朝食、コーヒーを飲む若い農婦(Peasant girl drinking her coffee)
風景画の多いピサロの作品の中でも数少ない人物画の一つ。
1881年制作。点描技法を用い細部にわたって繊細な色彩で表現されています。
ピサロ自身の言葉を借りると「これほど注意深く完成された作品はない」とのこと。シカゴ美術研究所所蔵。
モンマルトル大通り 冬の朝(The Boulevard Montmartre on a Winter Morning)
「モンマルトル大通り 冬の朝」はピサロが目を患い、野外制作が困難になったためにパリの街に戻ってホテル住まいをしたときに描いた作品の一つです。
ピサロはこのモンマルトル大通りをテーマにした絵画を数点残しています。
高いところから見下ろす俯瞰的な構図は日本の浮世絵の影響を受けたものと考えられています。
制作したのが1897年ですから、亡くなる6年前の作品。
印象派独特の明るい色彩ではなく、初期の頃のロマン主義的な暗い色彩に戻っているのが興味深い作品です。
ニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵。
日本でピサロの絵画が鑑賞できる美術館
「 ブージヴァルのセーヌ河 」
アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)
公式サイト
「 冬景色 」
「 小枝を持つ少女 」
国立西洋美術館
「 ポントワーズ、ライ麦畑とマチュランの丘 」
静岡県立美術館
「 フルーエットの丘からの眺め、ポントワーズ 」
茨城県近代美術館
「ポントワーズのロンデスト家の中庭 」
大原美術館
「 エラニーの村の入口 」
ポーラ美術館
まとめ
カリブ海の島で生まれ後にフランスに移住し画家となったピサロは、印象派の画家として活躍しましたが、最後まで写実的な技法に終始。
全部で8回開かれた印象派展のすべてに参加し、同じ印象派の画家達を励まし支えるなど謙虚な生き方をした人物としても知られています。
その一方で絵画制作においては、ロマン主義から印象派に移行し、点描技法を取り入れたり、日本の浮世絵の技法も積極的に受け入れるなど革新的なチャレンジ精神を忘れませんでした。
そのためにピサロは新印象派と呼ばれることもあります。