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ミステリーに満ちたヴェネツィアルネサンスの画家ジョルジョーネ
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ティツィアーノと同世代の画家ジョルジョーネ。ベネチアのルネサンスを語るうえで外せない芸術家です。

ジョルジョーネは、その詩的な画風により生前から非常な人気を誇りました。にもかかわらず、30才前後で早逝したために謎の多い伝説的な画家として扱われています。

謎多きジョルジョーネの人生

ジョルジーネの自画像
「自画像」1509-1510年頃 52×43cm ドイツ アントン・ウルリッヒ公爵美術館蔵

ヴェネチアのルネサンスを代表する画家といえば、ジョルジーネのほかにティツィアーノを思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。ジョルジョーネとティツィアーノには、ヴィーナス像をはじめとして同じテーマの絵画がたくさん残ります。ティツィアーノもジョルジョーネも、いずれも生年がはっきりしていません。ジョルジョーネはティツィアーノより10歳ほど年上であったというのが通説です。

90歳近い長寿を全うしたティツィアーノとは異なり、ジョルジョーネはペストにより30才前後で早逝しました。しかし、ジョルジーネは裸婦像や肖像画においてティツィアーノやセバスティアーノ・デル・ピオンボ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴェロネーゼ、マネの絵画に大きな影響を与えることになりました。短い人生ながら、ルネサンス以外の時代にも存在感は抜群であったといえます。イタリアには、「ジョルジョニズム」という言葉も存在するほど。ヴァザーリの列伝では、レオナルド・ダ・ヴィンチがヴェネツィアを訪問した際のジョルジョーネとの関連性にも触れられています。

また、ジョルジョーネは絵画作品に署名を残さないことが多く、現在彼の作品と認められているものは非常にわずかです。さらに、絵画作品自体にも彼独自の世界観と哲学が漂い、解明されない謎が多いという特異性があるのです。日本での知名度はイマイチですが、ヴェネツィアには「ホテル・ジョルジョーネ」という4つ星ホテルがあるほど。ヨーロッパでは絶大な人気を誇ります。

ミステリアスなジョルジョーネの人生と作品について、今日は解説いたしましょう。

画家として世に出るまでのジョルジョーネ

ジョルジョーネの人生は、実は知られていることが非常にわずかです。ルネサンスもたけなわの1477年か1478年、ヴェネト州のカステルフランコに誕生しています。

現在は、「Giorgione」と表記し「ジョルジョーネ」と呼ばれている彼は、当時の記録では「Zorzi」と記されていました。父は公証人で、ジョヴァンニ・バルバレッラと記録されています。この出生にも諸説があり、近年ではローマ・ラ・サピエンツァ大学教授エンリコ・グイドーニが、ジョルジョーネは画家のサグナーロ・チーニャの息子ではないかと主張。

一般的には、ジョルジョーネ・ダ・カステルフランコが彼の名前となっており、ヴェネト地方では親しみを込めて「ゾルツィ」と呼ばれることが多いようです。

ヴェネツィアにて画家としてのキャリア開始

聖母子
「聖母子」1498-1500年頃 44×36.5cm ロシア エルミタージュ美術館所蔵

ジョルジョーネがいつ故郷のカステルフランコを去り、画家としての修業をいつ頃開始したのか、いずれの古文書からも知ることができません。わかっていることは、ひじょうに若いときにヴェネツィアのジョヴァンニ・ベッリーニの工房で色彩や風景の描き方など、絵画の基本を習得したということです。17世紀の画家カルロ・ルドルフィが記した芸術家列伝によれば、ジョルジョーネはベッリーニのもとで修業をしたのち、故郷のカステルフランコに戻り教会や宮殿のフレスコ画などを手掛けていたと伝えられています。この時代にジョルジョーネが描いたフレスコ画はほとんど消失してしまいました。かろうじて、ジョルジョーネが住居としていたカンポ・サン・シルヴェストロに、わずかなフレスコ画が残っています。

ジョルジョーネが本格的にヴェネツィア画壇にデビューした作品は、現在はロシアのエルミタージュ美術館に残る「聖母子像」で、推定製作年は1500年頃。その他、「聖家族」などをテーマにした宗教画は、ジョルジョーネのキャリアの初期に集中しているという特徴があります。また、初期の作品として同じくエルミタージュ美術館に残る「ユディト」があげられます。いずれの作品にも、背景となっている田園風景にジョルジョーネ独自の画風をみることができます。
ユディト
「ユディト」 1504年頃 144×66cm ロシア エルミタージュ美術館所蔵

インテリや貴族層から愛される

1508年頃には、ジョルジョーネはヴェネツィア共和国政府からドゥカーレ宮殿のための作品を注文されたり、ティツィアーノらとともにドイツ商人館(Fondaco dei Tedeschi)の外装を請け負うなど、すでに第一線の画家として認められ、ジョルジョーネの哲学的な絵画を愛するインテリ層や貴族たちからも注文が相次ぎました。

ここからは、1510年に急逝するまでのジョルジョーネの絵画作品をご紹介します。

「2人の青年の肖像」

2人の青年の肖像
1502年頃に制作されたこの絵画作品は、セバスティアーノ・デル・ピオンボやドッソ・ドッシなどの名前が挙がることがあるものの、一般にはジョルジョーネ作とされています。ジョルジョーネは、メランコニーが漂う肖像画を数多く残していますが、2人の青年が描かれたこの作品はその中でも傑出しています。ある説によれば、1502年頃ジョルジョーネがヴェネツィア出身のキプロスの女王カテリーナ・コルナーロの宮廷にいたため、彼女を囲む文芸サークルのメンバーがモデルとも。

従来の肖像画には見られない人間的な感情やポーズは、のちの芸術家たちにも大きな影響を与えました。大きさは80×75cm。現在は、ローマのヴェネツィア宮殿国立博物館に所蔵されています。

「テンペスタ(嵐)」

テンペスタ(嵐)
ジョルジョーネの傑作といわれる「テンペスタ(嵐)」。ヴェネツィアのアカデミア美術館にある、83×73 cmの作品です。ジョルジョーネの代表的な作品ながら、この絵をみてもよくわからないという感想を持つ人が多いでしょう。製作年は1502年ごろ。画面の奥に稲妻が描かれていることから「テンペスタ(嵐)」の名がついています。残る古文書から、おそらくヴェネツィアの名門貴族ヴェンドラミン家が注文した絵画と考えられています。

「テンペスタ(嵐)」に描かれた写実的な風景は、西洋の美術史においても重要な転換点になった作品といわれてきました。作品の前方に描かれた人物像から、作品のテーマは後方の風景や嵐ではないというのが学者たちの一致した意見です。ギリシア神話、アレゴリー、聖書などなど、諸説のテーマもまちまち。象徴事典をもってしても、「テンペスタ(嵐)」に描かれたアレゴリーは解説不可能。ジョルジョーネをめぐるミステリーの中でも「テンペスタ」の謎は、もっとも議論の的になっています。

「ラウラ」

ラウラ
謎が多いジョルジョーネの作品の中では唯一、ジョルジョーネ自身の署名が残り製作年もはっきりしている絵画作品、それが「ラウラ」です。1506年に描かれた「ラウラ」は、現在ウィーンの美術史美術館所蔵。41×33.5cmの小品。

暗い背景から浮かび上がる女性の上半身像は、身に着けている毛皮の素材感まで伝わるリアル感。女性とともに描かれた月桂樹(イタリア語ではラローロ)から、「ラウラ」という名前で呼ばれています。モデルについては不明で、ギリシア神話のフローラを描いたという説、空想上の理想的な女性像であったという説、またヴェネツィアの遊女を描いたなどの説があり。

「老女の肖像」

老女の肖像
1506年頃に描かれた「老女の肖像」は、現在ヴェネツィアのアカデミア博物館が所有。68×59cmの絵画作品です。1569年の目録では、「画家の母」の肖像と記されていますが真偽は不明。描かれた老女は、手に「Col tempo ( 時の流れとともに)」という紙を持っています。「老女の肖像」は、ミケランジェロがヴェネツィアに滞在した際に目にして、のちにシスティーナ礼拝堂の天井画に描かれた「シビラ像」に影響を与えたという言い伝えもあり。ジョルジョーネの特徴である素材の質感、色調主義が顕著な作品です。

「日没」

日没
ロンドンのナショナルギャラリーに残る「日没」は、1505年から1508年の間に制作された絵画作品。大きさは73.3×91.5cm。

タイトル通り写実的な風景が主役となっている「日没」には、向かって右手奥にドラゴンを倒す聖ゲオルギウスが、左手下には太ももの潰瘍を治療している聖ロクスとゴッタルドが描かれています。描かれた聖人たちから、1504年にヴェネツィアで流行した疫病鎮静への謝意のために制作されたという説が有力です。静謐感漂う背景は詩的で、温かな光や空気が鑑賞者にまで伝わる緻密さにあふれた作品です。

「眠れるヴィーナス」

眠れるヴィーナス
「眠れるヴィーナス」というタイトルのほかに、「ドレスデンのヴィーナス」別名を持つ作品。1507年から1510年頃に制作。現在は、ドレスデン美術館所蔵。108.5×175cmの大作です。ジョルジオーネが円熟してきた時期の作品であり、もっとも高名なルネサンス絵画のひとつでもあります。

ヴェネツィア貴族マルカントニオ・ミキエルが、1507年に結婚した際にジョルジョーネに注文したといおうのが定説になっています。1510年にジョルジョーネが死去した際には未完であったため、のちにティツィアーノが仕上げたという伝説も。目を閉じたヴィーナスは、官能的でありながら聖母マリアのような清らかさも併せ持っています。「眠れるヴィーナス」の影響は大きく、のちにヴェネツィア派をはじめとする欧州の画家たちがこぞってこのポーズを模倣することに。

とくに、ティツィアーノはこのポーズの女性像を数多く残しています。作品の中でアクセントとなっている美しい赤色、奥に広がる写実的な風景、ヴィーナスの計算尽くされたポーズ、シーツの質感などなど、ジョルジョーネの円熟を示す技術が随所に見られる傑作です。

ジョルジョーネの死

ジョルジョーネは、1510年にヴェネツィアで猛威を振るったペストによって死去。30才前後という若さでした。ジョルジョーネの病気は、恋人の女性から感染したという言い伝えもあります。また、ジョルジョーネの作品に魅かれて、マントヴァ公爵夫人イザベッラ・デステが自らの書斎に飾るジョルジョーネの絵画作品を欲していたという文書も残っています。

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