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ルネサンス芸術・美術を解説!画家の絵画作品を紹介

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官能的なヴィーナスや女性像で知られるヴェネツィア派の大家ティツィアーノ
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優婉な女性たちの肖像画やヴィーナス像で有名なティツィアーノ・ヴェチェッリオは、水の都と称えらえるベネチア共和国を代表する画家です。

ヨーロッパでも類を見ない繁栄を誇ったベネツィアを体現した芸術家といって過言ではありません。ベネチア国外でもその人気は絶大で、スペイン王カルロス5世をはじめ各宮廷からの注文が引きも切れませんでした。

ルネサンス時代のベネチア派の重鎮ティツィアーノ・ヴェチェッリオとは、どんな芸術家であったのでしょうか。

ヴェネツィアのルネサンスを代表する長命な画家

ティツィアーノの自画像
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「自画像」1562年頃
96×75cm ベルリン美術館

ティツィアーノ・ヴェチェッリオの生年は、1488年とも1490年ともいわれています。

いずれにしても、85歳まで生きた長命な画家でした。

長生きであったティツィアーノは、ブランクにも無縁の幸運な芸術家といえます。祖国ベネチア共和国に重用されるだけではなく、スペイン王カール5世も肖像画家としてティツィアーノを一のお気に入りとしていました。ひとつには、彼の卓越した肖像画を描く能力にあります。モデルとなる人物の長点を引き出し、決して嘘にならない肖像画を数多く残しました。品格あるその肖像画は、欧州の王侯貴族たちから引く手あまたであったのです。85年という長寿を全うしたティツィアーノは多作であり、世界中の美術館でその作品を見ることができます。

そして、ティントレットをはじめとするのちのベネチア派にも、大きな影響を与えました。そのキャリアの初めから最後まで、ティツィアーノはベネチアのルネサンス時代における第一人者の地位を維持し続けたのです。

裕福な家庭に生まれたティツィアーノ

ティツィアーノは、ヴェネト州のピエーヴェ・ディ・カドーレという町に、1490年頃に生まれました。本名を、ティツィアーノ・ヴェチェッリオといいます。

ヴェチェッリオ家の家系には法律関係のインテリが多く、またティツィアーノほど高名ではなくても画家を輩出することでも知られていました。15世紀から17世紀の間に、ヴェチェッリオ家からは9人の画家が生まれているのです。ちなみに、ティツィアーノの兄のフランチェスコ・ヴェチェッリオも、のちに画家になっています。

ヴェチェッリオ家の祖は、1240年に公証人を務めていたグエチェルス・ヴェチェッリオという男性までたどり着きます。ティツィアーノの父グレゴリオ・ヴェチェッリオは、軍所属の評議員であったと伝えられています。5人兄弟の一人として生まれたティツィアーノは、幼いころに母を失いました。

生涯を通して王道のスタイルを貫いたティツィアーノの画風は、裕福な家庭で生まれ育ったこととは無縁ではないかもしれません。

若くしてジョヴァンニ・ベリーニの弟子に

ジョヴァンニ・ベリーニ
伝説では、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは10歳にしてその画才は明白であったといわれています。

そのため、10代で兄のフランチェスコとともにベネチアに送られ、叔父のアントニオの後見のもと画業を志すことになりました。

最初の師は、モザイク画家であったセバスティアーノ・ズッカートでした。しかしズッカートは、どちらかというと企業家であり軍事関係の仕事により関心があったため、ティツィアーノはベネチアで随一の画家ジェンティーレ・ベリーニの工房に預けられます。1507年にこの師匠が亡くなると、ティツィアーノは自動的にその弟ジョヴァンニ・ベリーニの弟子になりました。

15世紀初頭、最盛期のベネチアで

ベネチア(ヴェネツィア)の写真
ティツィアーノ・ヴェチェッリオがキャリアを開始した時代、その舞台となったベネチアはまさに歴史の中で最盛期を迎えていました。イタリア半島だけではなく、ヨーロッパでも有数の強国であったのです。

堅固な政府組織、オリエントから張り巡らされた交易路などが十全に機能し、文化の分野も大輪の花を咲かせます。

また、記録によれば1994年にはミケランジェロが、1500年にはレオナルド・ダ・ヴィンチがベネチアを訪れていたことがわかっています。

ティツィアーノは、ラファエロとほぼ同世代です。

こうした空気の中で、若きティツィアーノ・ヴェチェッリオは新プラトン主義を吸収しました。

師匠であったジョヴァンニ・ベリーニに加え、ヴィットーレ・カルパッチョ、チーマ・ダ・コネルアーノ、ロレンツォ・ロット、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、そしてなによりもジョルジョーネとの出会いが、このベネチアでくり広げられたのです。ジョルジョーネとティツィアーノは、拮抗する才能で互いに妍を競いました。残念ながら、ジョルジョーネは三十路を迎えた1510年にペストで早逝しています。

ティツィアーノの初期の作品

ティツィアーノ・ヴェチェッリオが画家として独立した初期の作品としては、ドイツ商人館にジョルジオーネと描いたフレスコ画であったと伝えられています。ただし、当時のティツィアーノの技能を知るにはこのフレスコ画は破損がひどく、判定は不可能です。

そのキャリアの初期から、ティツィアーノは祭壇画や肖像画を請け負ったことが判明していますが、その中の代表的な作品を見てみましょう。

玉座のサンマルコ

玉座のサンマルコ

二十歳前後のティツィアーノの作品「玉座の聖マルコ」は、サント・スピリト教会のために描かれました。218×149 cmの大作です。現在は、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が所蔵。

この作品は、ジョルジョーネの命をも奪ったペストの終息を感謝して1510年頃に制作されました。

中心にいる聖マルコは、いわずと知れたベネチアの聖人。その彼を囲んでいるのは、双子の医師で聖人であった聖コズマと聖ダミアーノ、ペスト患者の守護聖人である聖セバスティヌスと聖ロクスの4人です。伝説によれば、聖ロクスは若き日のティツィアーノの自画像とも。

ティツィアーノの若さを感じられる明るい色彩が特徴です。

アリオストの肖像

アリオストの肖像

一時期、ファン・ダイクが所有していたともいわれる「アリオストの肖像」は、現在はロンドンのナショナル・ギャラリー所有。大きさは、81,2×66,3 cm、製昨年は推定で1510年頃。ティツィアーノのキャリア初期の傑作です。

暗い背景から、半身をこちらに向けている男性はサテンの光沢も豪奢な衣服に身を包んでいます。黒の毛皮によって、モデルが富裕層であることがわかります。鋭いまなざしの中に、モデルの性格までも浮き出させる手法は、ジョルジョーネの画風を継いでいるともいわれてきました。

また、初期の女性像の傑作としては、聖書からテーマを取った「サロメ」などが残っています。

数々の女性像や肖像画 ティツィアーノの円熟

ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、卓越したデッサン力をもつ画家でした。

人物のドラマティックな動き、劇場を思わせる鮮やかな色遣いは、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの最大の特徴といわれています。それまでのベネチア派の絵画には見られなかったこの技法により、若きティツィアーノはまたたくまに頂点に上りつめます。セバスティアーノ・デル・ピオンボがローマに向かったのは、ティツィアーノとの競争に敗れたためと噂されたほどです。

若くして成功したティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品は、ベネチア共和国の外交にも大きな役割を果たししたのです。

また、彼の作品にはさまざまな寓意が描かれており、その意味するところは現在も研究対象となることも多いようです。

日本でもよく知られているティツィアーノ・ヴェチェッリオの代表作について、ご紹介いたしましょう。

フローラ

フローラ

1515年頃に制作された「フローラ」は、発表当時から旋風を巻き起こした作品です。

現在は、フィレンツェのウフィッツィ美術館が所蔵。大きさは79×63㎝。

ベネチア金髪と呼ばれる赤毛の女性は「理想美」の体現といわれ、後世の画家や彫刻家に多大な影響を与えました。

しどけなくまとった白の衣服も、官能的でありながら下品ではなく、ティツィアーノが描くヴィーナス像や女性の肖像画に共通する優美さにあふれています。

女性的な優しい線と非の打ち所がない顔立ちは、ウフィッツィ美術館の中でも多大なる人気を誇ります。1824年のウフィッツィ美術館の記録によれば、「フローラ」を模写したい画家たちが列をなしたのだとか。

聖母被昇天

聖母被昇天

サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ大聖堂からの注文で制作された「聖母被昇天」は、現在も同聖堂の祭壇を飾っています。製作年は1516~1518年、研究者の間でもティツィアーノの大傑作として太鼓判を押されている作品。祭壇画であるため、大きさは690×360 cmもあります。高さが7m近くあるのは、ゴシック様式の大聖堂に合わせたためでした。

赤い衣装の聖母マリアが金色の天に昇っていくシーンはまさに劇的であり、躍動感が見るものに伝わるパワーを有しています。

ウルビーノのヴィーナス

ウルビーノのヴィーナス

1538年、円熟期にあったティツィアーノが描いた「ウルビーノのヴィーナス」。

ウルビーノ公爵であったグイドバルド・デッラ・ローヴェレから注文されたことから、この名がついています。現在はフィレンツェのウフィッツィ美術館蔵。119×165 cmの大作です。

神話をテーマにしながら、実際に描かれたのは世俗的な女性像であったことから当時はかなりセンセーションを巻き起こしました。

カメリーノ公爵の娘でウルビーノ公爵の妻となったジュリア・ダ・ヴァラーノがモデルになっているという説もあり。つまり、2人の結婚の祝いとして描かれたというわけです。ヴィーナスとともに、「忠誠」の意味を持つ子犬が描かれていることもその説を後押ししています。のちに、デッラ・ローヴェレ家からメディチ家にお輿入れしたヴィットリアによってフィレンツェに運ばれ、その後ウフィッツィ美術館の所有となりました。

「ウルビーノのヴィーナス」が芸術家たちに与えた影響は大きく、1821年にはアングルが同作品の模写を残しているほか、マネの「オリンピア」にもこの作品の影響が見られます。

ダナエ

ダナエ

「ウルビーノのヴィーナス」同様にギリシア神話からテーマを取った「ダナエ」は、ローマ教皇パウルス3世の孫でパルマ公爵であったオッターヴィオ・ファルネーゼの依頼で制作されました。現在は、ナポリにあるカーポディモンティ美術館に置かれています。

ファルネーゼ家は、スペイン王カール5世とも縁戚の名門貴族です。作成されたのは1545年。ミケランジェロが描いた「レダ」とよく似たポーズのダナエは、天から降る金の粒とキューピッドによって絶妙な構成をなしています。

ダナエは、ギリシア神話の中で金の粒に扮したゼウスに襲われて身ごもります。「ダナエ」というテーマはティツィアーノのお気に入りであったのか、生涯に4作品を残しています。

レンブラントやファン・ダイクもティツィアーノの「ダナエ」に感銘を受け、同じテーマで作品を残しました。ダナエの横に描かれるのは、キューピッドであったり老婆であったりしますが、解説書でもその意味するところは解かれていないようです。ティツィアーノはまた、ギリシア神話のディアナやエウロペなども官能的な筆で描いています。古代ローマをテーマにした作品には、「ルクレツィアとタルクィヌス」などがあります。

カール5世の肖像

カール5世の肖像

騎乗のスペイン王カール5世を描いたこの作品は、バロックの画家たちにも愛されたことで知られています。作品は現在、マドリッドのプラド美術館所蔵。

332×279 cmの作品は、スペイン王家が数多くティツィアーノに注文した肖像画のひとつです。スペイン王カール5世は、神聖ローマ皇帝として戴冠するためにイタリアを訪れ、ティツィアーノに肖像画を依頼、それ以降は憑かれたように彼に作品を注文し続けました。

決して美男とはいえなかったカール5世も、ティツィアーノの筆になるとその欠点を補って王者の品格が満ち溢れていたところがその理由でしょう。

作品が描かれた1548年当時、カール5世は48歳でした。カール5世の妹によって注文されたこの作品の中で、カール5世は中世の騎士のような雄々しさと風格をまとっています。同じころ描かれたカール5世の肖像画では、ミュンヘンの国立美術館アルテ・ピナコテークに残る作品が有名です。

ティツィアーノの遺作「ピエタ」

ティツィアーノの遺作「ピエタ」

ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、晩年になっても創作意欲が衰えることなく絵を描き続けました。

晩年、彼は自らの墓所を「聖母被昇天」があるサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ大聖堂と決め、同大聖堂に奉献するために「ピエタ」を描き初めたといいます。ところがティツィアーノ自身がペストに罹患、1576年8月27日に死去。その1か月前には、息子のオラツィオもペストで亡くなっていました。暗い色の中に沈むイエス・キリストは、当時のベネチアを表現したものであったのかもしれません。

「ピエタ」は、しばらくはティツィアーノの家に残っていましたが、のちに弟子のパルマ・イル・ジョーヴァネが完成、ペスト終息後にサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ大聖堂に納められます。ティツィアーノも、彼の遺言通り同大聖堂に埋葬されました。

現在は、ベネチアのアカデミア美術館が所有しています。

長年の制作活動の中で数多くの作品を残したティツィアーノ、それらの作品は欧州の各国の美術館で見ることができます。

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