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有名で人気な芸術家のアート美術作品まとめ

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パリで起きた絵画の革命「印象派」、代表的画家10人とその作品を一挙紹介
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「モンマルトル大通り、曇りの朝」カミーユ・ピサロ、1897年、オーストラリア ビクトリア州国立美術館

世界中の絵画ファンを今でも熱狂させる印象派。フランスのパリで起きた革命的な美術運動と言われる印象派とはいったいどんな背景の下に誕生し、どのような画家を生み出したのでしょうか。大きく4つのグループに分けられる印象派の代表的な画家10人とその作品を紹介します。

印象派の先駆者であるバルビゾン派

ミレー・落穂ひろい
「落穂ひろい」ジャン・フランソワ・ミレー、1857、オルセー美術館

印象派について語る前にまず触れておきたいのがバルビゾン派です。バルビゾン派とは1830年頃からフランスで生まれた新しい画法やモチーフを取り入れた画家のグループのこと。この中にはコロー、ミレー、ディアズなどの画家が含まれます。バルビゾンというのはフランスのある村の名前。この村やその周辺にこうした画家たちが集まり新しいスタイルを生み出していったため、村の名前を取ってバルビゾン派と呼ばれるようになりました。バルビゾン派絵画の特徴は、自然主義と写実主義を重んじるもので、モチーフには風景や農民の姿が使われました。バルビゾン派の活動は1840年代に最盛期を迎えますが、1860年代に入ると印象派の画家が現れたこともあり、グループは徐々に分裂。ただし、バルビゾン派の自然主義的な技法や農村の風景をモチーフとして取り上げたことなどは、後に印象派の画家たちにも大きな影響を与えました。

印象派の誕生とその後の画家たちの分裂

バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り
「バジールのアトリエ、ラ・コンダミンヌ通り」フレデリック・バジール、1870、オルセー美術館 【向かって左からルノワール(着座)、作家のエミール・ゾラ(階段の上)、マネ、モネ(帽子着用)、バジール(背の高い人物)、音楽家エドモン・メートル(ピアノを弾いている)】

バルビゾン派の影響を受けて19世紀後半に始まった印象派の活動はフランスの画壇に大きな衝撃をもたらしました。革命的ともいえるこの美術運動は、後に音楽や文学にも広がって行きました。最初の印象派の美術運動は、フランスアカデミーでシャルル・グレールの生徒だったモネ、ルノワール、シスレー、バジールが風景画に興味を持って意気投合したことから始まったと言われています。その後、すでに画家として画壇に立っていたマネが加わります。マネはこの美術革命のリーダー的存在として活躍しましたが、伝統的なサロンでの成功を目指すという一見矛盾に満ちた態度で印象派の画家たちと交流していました。その後ピサロ、セザンヌ、スーラなどが加わり、「バティニョール派」というグループを結成。このグループが1874年に第1回目の「印象派展」を開き、印象派の活動は本格化しました。ところが、もともと個性の強い画家たちの集まり。次第に分裂し、1886年の第8回印象派展が最後の展覧会になりました。その後は、それぞれが独自の道を歩むことに。具体的には、スーラは点描画を自分の技法として取り入れ、これにシニャックが追従。この2人の画家は新印象派と呼ばれています。そしてセザンヌは、後にキュビズムに繋がって行く独自の技法を取り入れたため、ポスト印象派の画家と呼ばれ、このポスト印象派に個性の強いゴッホとゴーギャンが含まれます。

代表的な画家を特徴別に紹介

印象派と一口に言っても、技法を詳しく見て行くと違いがあることが分かります。美術史上では印象派を、最も純粋な印象派の他に「新印象派」と「ポスト印象派」の3つのグループに分けています。ただし、マネはどのグループにも属さないため、特別な立場の画家として紹介します。

サロン入選を目差した印象派のリーダーマネ

マネ・草上の昼食
「草上の昼食(The Luncheon on the Grass)」エドゥアール・マネ、1863年、オルセー美術館

マネは印象派の先駆者でありリーダーとみなされた人物です。それは、1863年に描いた「草上の昼食」をフランスアカデミーが主催する伝統的な展覧会「サロン」に出品したことから始まります。この作品では、1人の裸婦が森で2人の男性とピクニックをしている様子が描かれています。裸婦を描くことは伝統的な絵画でも多く見られますが、裸婦は必ずヴィーナスなど架空の世界の人物を描くことが原則とされていました。ところがマネの描いた裸婦は明らかに娼婦であったため、酷評を受けました。このことから、マネは伝統な芸術に反する革命的な画家とみなされたのです。折しもそのころモネを中心とした印象派の運動が広まり、マネもその運動に近づいて行きました。ここからマネは印象派のリーダーとみなされたのです。ところが、マネは最後まで、サロンで入賞することが画家として成功することだという考え方を変えませんでした。

印象派の特徴をもっとも顕著に表した画家たち

ピサロ、モネ、シスレー、ルノワール、ドガは印象派の特徴を最も顕著に表現した画家と考えられています。ただし、この中でドガは外光ではなく内光、つまり室内の照明が造り出す美しさを描いた画家という点で個性が窺われます。

すべての印象派展に出品したピサロ

ピサロ・赤い屋根、村のはずれ、冬
「赤い屋根、村のはずれ、冬」カミーユ・ピサロ、1877、パリのオルセー美術館

ピサロは、印象派の中で、全部で8回開かれた印象派展に毎回出品した唯一の画家です。カリブ海の島で生まれ育つという印象派グループの中でも異色の背景を持つピサロは、グループの中では最長者であり、そうしたことから、マネの背後に立って仲間を支えた人物でした。残した作品の多くは風景画、特に尊敬するミレーに倣って農村の風景を数多く描きました。一時スーラの影響を受けて点描画も何枚か制作しましたが、この技法に限界を感じ、スーラの死去をきっかけに点描技法から離れ元の画風に戻っています。後年は目の病気により戸外制作が困難になったため都会でホテル住まいをし、街の風景を描くようになりました。特にモンマルトル大通りをモチーフにした作品は有名です。

睡蓮の池の絵で有名なモネ

モネ・日本の橋
「日本の橋」クロード・モネ、1899

モネは「印象派」の謂れとなった「印象・日の出」を制作した画家です。この作品は第1回印象派展に出品されました。モネは日本でも人気のある画家の一人。特に、自身が造り上げた庭園にあった睡蓮の池を題材とした作品は、モネの画風を特徴づけるものになっています。また日本の浮世絵や文化の影響を強く受けていたモネは、自分の庭園にも日本的な橋を作り、それをモチーフとした作品を残しています。このようにモネは印象派の形成に大きな足跡を残しましたが、人生の大半を通して経済的な困難に直面しました。作品が評価されるようになったのは50代に入ってからです。

戸外制作で多くの風景画を残したシスレー

シスレー・アルジャントゥイユのセーヌ河
「アルジャントゥイユのセーヌ河」アルフレッド・シスレー、1872

純粋な印象派の画家中でも、シスレーは、唯一最後まで印象派の技法を取り入れ続けた画家でした。シスレーの作品のほとんどは戸外制作による風景画。時とともに移り変わる日の光が巧みに表現されているのが特徴です。ところがこのように印象派の代表的な画家でありながらシスレーの名があまり知られていないのは彼の血筋のせいではないかとも言われています。それは、シスレーがイギリス出身の親の下に生まれたことで、当時のフランス社会からフランス国籍を持った画家と同等には扱われなかったのではと評されているからです。

光の微妙な変化を表現したルノワール

ルノワール・ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」ピエール・オーギュスト・ルノワール、1876、オルセー美術館

これまで紹介した純粋な印象派の画家たちは風景画を得意としていましたが、ルノワールは都市の生活風景を描いた画家として知られています。その一つがパリの小高い丘モンマルトルに作られたダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」でダンスやおしゃべりを楽しむ人々を描いた作品です。ルノワールは木漏れ日が造り出す微妙な光が人々の中に溶け込む様子を印象派のタッチで表現しています。ルノワールはこの絵に代表されるように人間の喜びというものを巧みに描き表した画家と言われています。

近代フランスの社会問題を描いたドガ

ドガ・エトワール/プリマ・バレリーナ
「エトワール/プリマ・バレリーナ」エドガー・ドガ、1876、オルセー美術館

ルノワールと並んで風景画の作品は残していませんが、印象派の画家と呼ばれているのがドガです。ただしドガはルノワールとは異なり、当時近代化を迎えたフランスが直面していた社会的な問題をテーマとして取り扱い多くの作品を残しました。その中でもドガが最も力を入れたのが低い階級として扱われていたバレエの踊り子たちの踊る様子や舞台裏の風景などを描くことでした。ではなぜドガは印象派と呼ばれているのでしょうか。ドガは戸外制作によって日の光を表現することはしませんでしたが、室内の照明の美しさを表現しました。また伝統的な絵画には見られなかった斬新的な絵画構成は日本の浮世絵の影響を受けたものと評価されています。こうしたことからドガは印象派の画家として知られているのです。

点描技法を生み出した新印象派の画家

印象派の筆使いは筆触分割といわれる短いストロークを使うものですが、そのストロークを点にして発展させていったグループを新印象派と呼びます。新印象派にはスーラとシャニックがいますが、ここでは特にスーラについて解説します。

2年の歳月をかけて点描画の傑作を生みだしたスーラ

スーラ・グランド・ジャット島の日曜日の午後
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」ジョルジョ・スーラ、1886、シカゴ美術館

点描技法は、印象派の筆触分割技法を点に帰ることによって発展させた技法です。この技法を考え出したのがスーラでした。スーラはこのユニークな技法のため、新印象派の画家としてとらえられています。スーラは風景だけでなく、当時のパリの人々の様子を描きました。そのうちの一つでスーラの代表作といわれているのが2年の月日をかけて完成させた「グランド・ジャット島の日曜日の午後」です。この作品では、当時のパリのブルジョア階級のファッションと同時に労働者階級の人物の様子もうかがうことができます。

独自性の強いポスト印象派の画家たち

印象派の中でも、従来の印象派の技法からさらに独自の技法を発展させていった画家たちをポスト印象派と呼びます。ここではセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの3人を紹介します。

キュビズムの基を築いたセザンヌ

セザンヌ・サント・ヴィクトワール山
「サント・ヴィクトワール山」、ポール・セザンヌ、1895、アメリカのバーンズ基金

セザンヌは印象派の影響を色濃く受けながらも、印象派特有のその場の印象や感覚によって絵を描く技法に満足せず、そこからさらに独自の手法を築いていきました。セザンヌが重んじたことは形状をしっかり表現することでした。セザンヌのこの考え方はやがて幾何学的な表現方法に発展し、後にピカソなど近代絵画の画家が取り入れたキュビズムに結び付いて行きます。そのためセザンヌは「近代絵画の父」と呼ばれているのです。セザンヌはくだものや花瓶などの静物画もいくつか残していますが、後年は故郷のエクスに戻り、サント・ヴィクトワール山の絵を数多く描きました。

日本の浮世絵に強くあこがれたゴッホ

ゴッホ・星月夜
「星月夜」フィンセント・ファン・ゴッホ、1889、ニューヨーク近代美術館

ポスト印象派の中で、画風だけでなくその生き方においても独自性の強かったのがゴッホでした。ゴッホの画家としての人生はわずか10年。その短い画家人生を通して、常に他の画家から学ぶことを怠らなかったゴッホの作品には、その時代に影響を及ぼしていた当時の絵のスタイルが良く現れています。中でも顕著なのが日本の浮世絵の影響。死ぬまで経済的な援助をしてくれた弟のテオとの交換書簡の中にも浮世絵に対する強い思いが書かれています。最終的にゴッホは精神面で病むことになるのですが、その頃に制作した作品にはゴッホが10年間で蓄積した画家としてのすべてが表現されていると言っても過言ではないでしょう。

都市生活を離れタヒチを描いたゴーギャン

ゴーギャン・彼女たちの黄金の肉体
「彼女たちの黄金の肉体」ポール・ゴーギャン、1901、オルセー美術館

ゴーギャンはパリで活動を始めた画家の中で、もっとも異色性の強かった画家と言えるでしょう。まず画家になる前は船乗りや株式の仲買人をしていました。ところが失業したために画家に転向。ゴッホとも共同生活をしたことがありますが、最終的にはパリの都市生活を離れ南太平洋のタヒチへ移り、全部合わせて10年という歳月をタヒチで過ごしています。でもなぜタヒチへ?ゴーギャンは文明に毒されていない原始的な世界を求めてタヒチに渡り、そこで生活する人々の様子を描きました。そのほとんどが、太い枠線で縁取るという技法によるもの。ここにも浮世絵の影響が見られます。

まとめ

19世紀のフランスに新風を吹き込んだ印象派。それまでの伝統的な絵画技法を否定し戸外制作を通して日の光の変化を表現しようとした印象派の画家たちは、まさに当時のフランス画壇の革命児でした。やがてその革命的な運動も分裂し新印象派、さらにはポスト印象派と呼ばれる画家たちが生まれていきました。こうした画家たちの作品は、そのどれもが近代美術に影響を与えました。このような革命的な美術運動がなかったならば、私たちは今でも伝統的な絵画を描き続けていたかもしれません。

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