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イタリアの芸術家の絵画や彫刻作品などの美術品を紹介

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レオナルド・ダ・ヴィンチの師 ルネサンスの立役者であったヴェロッキオ
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イタリアルネサンスの巨匠にしてシンボルでもあるレオナルド・ダ・ヴィンチ。
レオナルドは、若き日から天部の才能を発揮した偉人です。しかし、そんな彼にも師匠について修行を重ねた時代があったのです。

アンドレア・デル・ヴェロッキオは、レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠でした。それと同時に、イタリア・ルネサンスの花の都として栄えたフィレンツェに工房を構え、自らも作品を制作する傍ら、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリをはじめとする高名な高弟たちを育てたことでも知られています。つまり、アンドレア・デル・ヴェロッキオの評価は、残された作品だけではなく無形の姿であちこちに残り現代に伝わっているのです。

弟子のレオナルド・ダ・ヴィンチの名にかすみがちなアンドレア・デル・ヴェロッキオとは、どんな芸術家であったのでしょうか。

典型的なイタリアのルネサンス人として

ヴェロキオの肖像画
一般的に、アンドレア・デル・ヴェロッキオは彫刻家として高く評価されています。

それと同時に、画家でありフィレンツェでも有数の工房経営者でありました。

アンドレア・デル・ヴェロッキオという芸術家の肩書は、それだけではありません。

金細工師であり武具製造者であり家具の装飾者であり技術者であり、かつ宮廷における祭事のプロデューサーでもありました。

これは、ヴェロッキオにかぎった特異な現象ではありません。

ルネサンスの芸術家たちは、境界線を引かずにあらゆる分野でその才能を発揮するのが常でした。ヴェロッキオの弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチはその典型ですが、ミケランジェロやラファエロ、それ以外の芸術家たちもカテゴリーを超越した活躍をするのがルネサンス人の特徴であったのです。また、マエストロと呼ばれたこうした芸術家は当時は職人の扱いであり、多くが工房と弟子を抱えていました。作品の多くは、芸術家個人のものであるよりも工房全体の作品とみなされることが多かったのです。

1400年代のイタリアでは、何十年に1度登場すれば満足というレベルの天才たちが、雲霞のごとく生まれるという特殊な時代にありました。

アンドレア・デル・ヴェロッキオはその中でも、15世紀後半のイタリアを代表する多才な芸術家でした。

ヴェロッキオの生い立ちとキャリアのはじまり

アンドレア・デル・ヴェロッキオ作「キリストの洗礼」
アンドレア・デル・ヴェロッキオは、本名をアンドレア・ディ・ミケーレ・ディ・フランチェスコ・チオーネとして、1435年頃にイタリアはフィレンツェに生まれています。レオナルド・ダ・ヴィンチよりは、17歳ほど年上でした。当時のフィレンツェは、ルネサンスの花の都として栄華を謳歌していた時代です。

ヴェロッキオというのは通り名で、ルネサンスの時代の芸術家は本名以外にこうした通り名を持つことが少なくありませんでした。

記録によれば、アンドレア・デル・ヴェロッキオは8人兄弟の5番目として生まれています。父は職人であったとも徴税人であったともいわれていますが、経済的に裕福な家庭ではありませんでした。父の死後、母や兄弟たちの生活を支えるために芸術家としてだけではなく工房の経営者としても腕を振るいました。

また、アンドレア・デル・ヴェロッキオは生涯独身を貫いています。そのため、ヴェロッキオには同性愛者であったという噂もまことしやかに伝わっています。

アンドレア・デル・ヴェロッキオは、まずは金細工職人としてキャリアを開始しました。その時の師匠の名前がジュリアーノ・ヴェロッキであり、ヴェロッキオの通り名はここから生まれたという説が有力です。

アンドレア・デル・ヴェロッキオの画家としてのデビューは1460年頃、プラートのドゥオモ内でフレスコ画を製作していたフィリッポ・リッピとの共同作業でした。

一説によると、ヴェロッキオは彫刻家として有名なドナテッロに師事していたともいわれていますが、これを証明する文献は発見されていません。

30代でフィレンツェを代表する芸術家に

聖トマスの懐疑
「聖トマスの懐疑」
1466年~1483年 241cm オルサンミケーレ博物館 フィレンツェ

アンドレア・デル・ヴェロッキオが、自らの名前を使用して芸術家として自立したのは、1465年頃のことです。ヴェロッキオは当時30歳前後、そして注文主はフィレンツェの実力者メディチ家でした。

フィレンツェにあるサン・ロレンツォ聖堂は、メディチ家の墓所がある由緒ある教会です。ヴェロッキオは、この教会の聖具室とメディチ家の当主たちの墓所の制作を請け負いました。それはつまり、30歳を迎えようとしていたヴェロッキオが、名実ともにフィレンツェを代表する芸術家として名を成していた証拠でもあります。現在に残るヴェロッキオの代表作の大半が、こうした富裕層からの依頼でした。アンドレア・デル・ヴェロッキオ自身の名声とともに、工房も活気を帯びフィレンツェでは知らぬ人がいない存在に成長しました。

次いでヴェロッキオは、商業裁判所からの依頼を受けてオルサンミケーレ教会に「聖トマスの懐疑」の彫刻を制作しています。本来ならば、1体の銅像を収める壁龕のなかに、2体の彫像を構成したアンドレア・デル・ヴェロッキオの作品は非常に斬新で近代的と評されています。

復活したキリストが聖トマスにその証として脇に受けた傷を見せるというこのシーンを、ヴェロッキオは優雅にかつ人間的に表現しています。

メディチ家御用達の芸術家

ルネサンスの大輪の花と表現されるフィレンツェは、アンドレア・デル・ヴェロッキオが生きた時代に最盛期を迎えていました。その中で、突出した才能を持つアンドレア・デル・ヴェロッキオとその工房は、フィレンツェの富裕層からの注文を次々と請け負うことになります。

またヴェロッキオは、フィレンツェのスピリットともいわれるメディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチと同時代人でもあります。そのメディチ家からの依頼で、ヴェロッキオはさまざまな作品を制作しています。メディチファミリーとのかかわりは、アンドレア・デル・ヴェロッキオのキャリアにさらに箔をつけることになります。

とくに、1470年からは彫刻家としての活動がアンドレア・デル・ヴェロッキオのキャリアの主軸となっていきます。

ダヴィデ
「ダヴィデ」

メディチ家からアンドレア・デル・ヴェロッキオに注文された作品の中でもとくに有名な作品「ダヴィデ」。1472年~1475年に制作されました。 高さ126cm、 ブロンズ製です。現在は、フィレンツェのバルジェッロ国立美術館に所蔵されています。1440年頃に制作されたドナテッロによる「ダヴィデ」の影響を受けているものの、ヴェロッキオのそれは裸体ではなく、足元に巨人ゴリアテの頭部を置いて誇らしげなポーズをとっています。

後にミケランジェロも同テーマで有名な彫刻を制作していますが、フィレンツェでは若きダビデが巨人を倒すという聖書のシーンがことのほか愛されていました。

いいつたえによれば、「ダヴィデ」の甘い顔立ちはヴェロッキオの若き弟子であったレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしているといわれています。

花束を持つ貴婦人
「花束を持つ貴婦人」

1475年頃に制作された「花束を持つ貴婦人」は、大理石製の高さが60cmほどの作品です。現在は、フィレンツェのバルジェッロ国立美術館に所蔵されています。

この作品が有名なのは、モデルがメディチ家の当主ロレンツォの愛人ルクレツィア・ドナーティと伝えられているためです。別の説では、ロレンツォの母ルクレツィア・トルナブオーニであるともいわれています。いずれにしても、メディチ家ゆかりの人物であることにまちがいはないようです。

15世紀半ばからフィレンツェで流行した、上半身のみの銅像です。アンドレア・デル・ヴェロッキオ独自の技術によって、ごく自然で優雅な手の動きを見せています。

イルカを持つプット(天使)
「イルカを持つプット(天使)」

天使のような幼児(プット)をモデルにした「イルカを持つプット」もまた、メディチ家からヴェロッキオに注文された作品のひとつです。高さは67センチ、ブロンズ製で、現在はフィレンツェのヴェッキオ宮殿が所蔵しています。

推定製昨年は1470年頃、ロレンツォ・デ・メディチがカレッジの山荘にある噴水に設置するためにヴェロッキオに依頼したといわれています。調査によると、イルカの口の部分から水が出る趣向になっていました。イルカは当時、「智」を意味するものとしてよく使われた題材です。アンドレア・デル・ヴェロッキオの作品は、天使とイルカの躍動的な動きが美しい一点です。

その他にも、ロレンツォ・デ・メディチの弟で美男の誉れ高かったジュリア―ノ・デ・メディチの胸像なども、メディチ家ゆかりの作品として残されています。
ジュリア―ノ・デ・メディチの胸像

画家としてのヴェロッキオとレオナルド・ダヴィンチ

アンドレア・デル・ヴェロッキオは彫刻家としての評価が高い芸術家ですが、画家としてもそれなりの業績を残しています。ヴェロッキオの絵画は、フランドル派の影響を受け写実主義を踏襲しています。また、作品全体に哀愁が漂う特徴も認められます。当時の絵画は、工房全体で市が得ることが多かったため、現在まで残るヴェロッキオ作とされる作品も、実際にはどこまで彼が描いたのか不明であることも多いようです。

初期には聖母子像の制作が多かったヴェロッキオは、1475年から1478年頃にサン・サヴィーニ修道院からの依頼で、「キリストの洗礼」という作品を制作しました。
キリストの洗礼

高さ177㎝、横幅が151cmのこの作品は現在、フィレンツェのウフィッツィ美術館が所蔵しています。

当時、ヴェロッキオの工房は名実ともにフィレンツェでも随一といわれるまでに成長していました。そのため、「キリストの洗礼」も洗礼者ヨハネがイエス・キリストに洗礼を授けるメインシーンをヴェロッキオが描き、背景や脇役の天使たちは工房の弟子たちによって製作されています。当時の工房は、こうした製作過程が通常でした。

アンドレア・デル・ヴェロッキオ作「キリストの洗礼」には、当時20歳前後であったレオナルド・ダ・ヴィンチも参加しているのです。調査によると、ヴェロッキオの「キリストの洗礼」には、少なくとも2人の弟子の手が認められています。背景のヤシの木と岩が目立つ右端の山々を手掛けた弟子が一人、そして向かって左端でこちらを見ている天使は、サンドロ・ボッティチェリによって描かれたとされているのです。

問題は、一番左で横顔を見せている天使です。この天使こそ、若きレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたといわれているのです。たしかに、横顔の天使はいかにもレオナルド・ダ・ヴィンチらしい優美さと甘さを見せています。さらに、学者たちの調査によれば背景の一部もレオナルドが担当したのではといわれています。レオナルド・ダ・ヴィンチは、14歳でアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入っていました。

伝説によると、天使を描いた若きレオナルド・ダ・ヴィンチの圧倒的な天賦の才を目にした師のヴェロッキオは、このあと絵筆を手に取らなかったとされてきました。たしかに、「キリストの洗礼」を俯瞰的に眺めると、左側の天使の部分が明るく浮かび上がってきます。

とはいえ、これはあくまで伝説であり、実際のヴェロッキオは高名な工房の主として死ぬまで第一線で活躍を続けています。

フィレンツェのライバル、ヴェネツィアにも届いた名声

バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像

イタリア半島の大国として、ライバルであったフィレンツェとヴェネツィア。アンドレア・デル・ヴェロッキオとその工房の名声は、ラグーンの王国ヴェネツィアにも到達します。ヴェネツィア共和国は、1475年に亡くなった勇将バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像を製作することを決定しました。その作品の依頼が、1980年にヴェロッキオのもとに届きます。

1486年に、ヴェロッキオはこの作品を完成させるためにヴェネツィアに赴いています。

ところが、1988年にヴェロッキオはヴェネツィアで死去。ヴェロッキオは作品の完成を、弟子のロレンツォ・ディ・クレーディにゆだねます。クレーディは、ヴェネツィア出身の彫刻家アレッサンドロ・レオパルディとともに、ドナテッロ作の「ガッタメラータの騎馬像」やパオロ・ウチェッリが描いた「ジョヴァンニ・アクートの騎馬像」を参考に完成させたと伝えられています。

完成した「バルトロメオ・コッレオーニの騎馬像」は、高さが395㎝のブロンズ製。現在も、ヴェネツィアのカンポ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロに置かれています。ヴェロッキオは死後、フィレンツェのサンタンブロージョ教会に葬られました。ただしヴェロッキオの遺骨の行方は不明で、現在は墓石のみが残っています。

まとめ

フィリッポ・リッピの助手としてキャリアを開始し、フィレンツェ随一の工房を率いたアンドレア・デル・ヴェロッキオは、イタリアのルネサンス時代において重要な役割を果たした芸術家です。

自身がさまざまな分野で一流の芸術家として活躍するにとどまらず、レオナルド・ダヴィンチ、サンドロ・ボッティチェリ、ロレンツォ・ディ・クレーディなど、天才たちの師であったことでも有名です。

フィレンツェがもっとも繁栄した時代に活躍し、メディチ家からも数多くの依頼を受けたアンドレア・デル・ヴェロッキオは、まさにフィレンツェのルネサンスの魂を体現した芸術家であったといえるでしょう。

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