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真珠の耳飾りの少女や牛乳を注ぐ女を描いた画家

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オランダが生んだ宝・フェルメールとその代表作について
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17世紀オランダを代表する画家、フェルメール。バロック美術に分類される画家ですが、その一瞬を切り取ったような静謐な画風、細密な描写は唯一無二です。

2018年~2019年に東京・大阪で開催された日本史上最大規模の展覧会「フェルメール展」が記憶に新しい方も多いのではないでしょうか。来館者は68万人を超え、フェルメールの人気を再確認した展覧会でもありました。

今回はそのフェルメールの生涯、その代表作品を解説していきます。

ヨハネス・フェルメールとは?

作品数およそ35点、寡作の画家

オランダの画家フェルメール
フェルメールは43年という短い生涯の中で、およそ35点の作品を描きました。これは、同時代の画家、レンブラントが146点、そして非常に多作の画家であるピカソが1万3500点もの作品を残したことからも、とびぬけて少ない作品数だったということがわかります。そしてその作品はどれも小さなものばかりでした。

失われてしまった作品数を予想しても、35点を大幅に超える点数があったとは考えられないそうで、これも、フェルメールという画家の神秘性を高めている一因です。

しかしそんな謎めいた印象のあるフェルメールですが、現在かなり研究が進んでおり、そのヴェールは剥がされつつあるようです。

現在フェルメールの35点の作品はオランダのアムステルダム国立美術館、アメリカのメトロポリタン美術館、イギリスのロンドン・ナショナル・ギャラリー、フランスのルーヴル美術館など、7か国の美術館に収蔵されています。

デルフトで過ごした短い生涯

オランダで生まれた画家
フェルメールは1632年にオランダのデルフトという商都で生まれ、その43年の生涯のほとんどをその土地で過ごしました。

フェルメールの父は装飾絹織物の職人で、居酒屋を経営しつつ、画商としても活動していました。当時のデルフトは芸術的活気にあふれており、父の居酒屋にも多くの画家が出入りしていたそうです。

そんな環境で育ったフェルメールは少年時代に画家として生きていくことを決めました。15歳ごろに画家として修業をするため一旦デルフトを離れます。しかし20歳で父が死去したため、デルフトに戻り、家業を継ぎました。

その翌年、21歳で反対を押し切り、カタリーナと結婚。15人(14人ともいわれている)の子供をもうけます。その生活は、多くの資産を持っていたカタリーナの母に支えられていました。

フェルメールはその年に聖ルカ組合という画家の組合に登録し、プロの画家になります。そこで初めて自分の作品に署名を入れたり、販売したりすることができるようになりました。

フェルメールは初め、歴史画家を目指していました。歴史画は当時の西洋絵画のヒエラルキーの中で最も高いジャンルです。なぜなら歴史画は、聖書や神話の題材を扱うため、画家自身にも深い知識や教養が必要でした。その当時、歴史画を描くことが才能ある優れた画家のステータスだという考えが浸透していたのです。

しかし求められていたものは歴史画よりも人々の生活を描いた風俗画。実際に「売れる」のは風俗画だったわけです。フェルメールもその絵画市場を見据えていたのか、風俗画を描くようになります。さまざまな画家たちの影響を受けながら風俗画を描きましたが、当初からフェルメール独自の画風は顕在でした。その頃の代表作は《牛乳を注ぐ女》で、この絵画はフェルメールが20代後半で描いたものです。

フェルメールの代表作・牛乳を注ぐ女

29歳になると、最年少で聖ルカ組合の理事に選ばれ、画家として高い評価を受けるようになりました。この頃《真珠の耳飾りの少女》などの今日でも傑作と評される作品を描きます。また、この頃フェルメール独自の画風は確固たるものになりました。

フェルメールの代表作・真珠の耳飾りの少女

30代後半では、さらにその評価が高まり、デルフトを代表する画家へと昇りつめます。しかし一方で生活は困窮。裕福だった妻カタリーナの母の財政状況が悪くなっていたことや、その他にも14人もの子供たちの養育費用や、フェルメールが用いた非常に高価な顔料が原因とも考えられています。

40歳ごろ、絵画の鑑定士としても活動するように。そのころオランダの経済は大不況に陥ってしまいます。オランダ全体の絵画の好みが変わっていったこともあり、フェルメールもそのあおりを受け、多額の借金を抱えることに。借金を返すために奔走したフェルメールは絵画を描いている場合ではありませんでした。そんな環境の中で彼は体調を崩してしまい、1675年、43歳でこの世を去りました。

残された妻カタリーナはフェルメールの死から4か月後に自己破産を申請します。その生活は夫が残した作品もパン代の担保にしてしまうほど困窮していました。そしてフェルメールの市から7年後にカタリーナも死去。その最後は多くの借金を抱えたみじめなものでした。

これだけは知っておきたい、代表絵画

続いて、フェルメールの代表作品を解説します。

牛乳を注ぐ女

牛乳を注ぐ女
こちらの作品はフェルメールが20代後半で描いた傑作です。

黄色と青の衣服を着た女性が牛乳を注いでいるところにまず目が留まります。女性は腕まくりをし、白い布巾のようなものをかぶっています。テーブルの上にはパンや壺が乗っていることから、朝食の準備をしているようにも見えます。彼女はメイドなのでしょうか。

窓から差し込む優しい光は冬の朝を連想させます。また壁は釘や釘穴がくっきりと描かれ、女性の足元には箱のようなものが。全体的に質素な印象を受ける作品です。

この作品はメイドが牛乳を注いでいる、取るに足らない場面を描いているだけのように思えるのに、なぜ見る者をこんなにも惹きつけるのでしょうか。

それはフェルメールの構図力や色彩、細密な表現に起因しています。フェルメールはこの女性の手元に視線が集中するように、さまざまな工夫が随所にこらしました。

まず、女性の右手の上に消失点が来るように遠近法を用いています。窓枠から線を伸ばしていくと女性の右手の上に線が収れんしていくはずです。これが消失点と呼ばれ、画面に奥行きを出すだけでなく、より女性の手元を際立たせているのです。

また、赤外線リフレクトグラフィー(IRR)と呼ばれる技術を用いることで、絵画の表面の層を透過することができ、フェルメールがこの絵をどのように修正していったのかが明らかにされています。

赤外線リフレクトグラフィー(IRR)でわかった修正点

①背後の壁

背後の壁には大きな地図が描かれていました。しかしそれを消すことでより女性に目が行くようにしたのです。

②女性の左腕

たくましい女性の左腕の輪郭は何度も描き直されたものでした。この左腕は窓から入った光に照らされていることもあり、この作品の中で重要なパーツでもあります。

③足元の箱

足元の箱は足温器とよばれるもので、冬の台所の必需品でした。これは修正前、大きな洗濯籠だったのです。その籠を消し、足温器とその手前に小さな小枝を描き加えました。この修正を行ったことで女性と背後の壁の距離感が、よりはっきりとしたものになりました。

④テーブルの黒いパン

これは最終段階で描き加えられたものです。このパンを加えることで、籠の取っ手に当たる光の反射とのコントラストを作ることができ、テーブルの上の遠近感がはっきりしました。

フェルメールはこのように余計なものを消したり、少し加えたりすることで、鑑賞者の視線を女性の手元に集中させました。この作品に現れている静謐な瞬間は、フェルメールが‘‘引き算‘‘で作り出した「一瞬」なのです。

真珠の耳飾りの少女

真珠の耳飾りの少女
オランダの「モナ・リザ」とも呼ばれるこの有名な作品はフェルメールの代表作。誰もが一度は見かけたことがあるのではないでしょうか。

青いターバンを巻いた女性がこちらを見つめており、その大きな真珠のイヤリングや少し開いた唇が印象的な作品です。背景が黒く、女性が浮かび上がってくるようで、女性がどこにいるのか、どんな場面なのかわからずミステリアスな雰囲気が醸し出されています。東洋風の衣装の青と黄色、真珠の白や唇の赤といった少ない色使いも特徴的です。

この作品は、トロ―二―と呼ばれる不特定の人物の頭部を描いた作品で、印象的なこの女性のモデルは未だ不明です。

紳士とワインを飲む女

紳士とワインを飲む女
つばの広い帽子をかぶった男がワインを飲む女性を見ている作品。

テーブルクロスのかかったテーブルに置いてあるのは楽譜。椅子に置いてある楽器はリュートと呼ばれる弦楽器。この2つは「愛と調和」を表すモチーフで、この男女が恋愛関係にあることを示しています。

17世紀オランダでは、このような男女が楽しく会話する場面を描いた作品が好まれました。当時のオランダの男女は、結婚するまで純潔を守るというわけではなく、自由な恋愛をしていたそうです。

画面左の開いているステンドグラスには手綱を持った女性が「節制」の擬人像として描かれています。この擬人像は、お酒を飲み過ぎて快楽に溺れることのないよう、注意を促しているのです。

この作品には楽譜や楽器、ステンドグラスなど、さまざまなものが描かれています。しかし雑然とした感じがなく、ひとつに調和しており、これはフェルメールの高い構成力がなせる業だといえます。

特徴的なフェルメールブルーについて

フェルメールブルー
フェルメールといえばその青が印象的で、「フェルメールブルー」ともいわれるほどです。《牛乳を注ぐ女》《真珠の耳飾りの少女》をはじめとするいくつもの作品にフェルメールブルーが使われています。

この青色には、中東アフガニスタンから輸入された貴石、ラピスラズリが用いられていました。「ウルトラマリンブルー」とも呼ばれたこの絵の具は普通の絵の具より100倍以上も高価なもので、黄金とほぼ同じ価値を持っていました。

フェルメールはそんな高価なラピスラズリをふんだんに使っていたのです。一枚描くのに、一体いくらかかったのでしょうか。

そしてこの当時の絵の具は現代のようにチューブに入ったものではなく、画家自身が鉱石を細かく砕き、油を加えて練り上げて作っていました。フェルメールに限らず、当時の画家の苦労がうかがえます。

フェルメールを生んだ17世紀オランダ

オランダの写真
フェルメールが過ごした17世紀オランダの情勢について解説します。フェルメールがどのような環境で過ごしたのか知ることでより理解が深まるかもしれません。

現在のオランダとベルギーにあたる地域は「ネーデルラント」と呼ばれていました。ネーデルラントは土地が低く穀物の栽培が難しい場所だったので、輸入に頼る必要がありました。そのため常に外国とかかわる必要があり、商人が活躍します。

そのような環境の中、1648年にネーデルラントを治めていたスペインから13州のうち北部7州が独立。オランダ(ネーデルラント)連邦共和国になります。南ネーデルラントはそのままスペインの統治下におかれることになりました。

オランダ連邦共和国は王侯貴族ではなく市民が中心になった世界初の国でした。また経済力もあり、それは南ネーデルラントから継承した貿易、東インド会社設立による好影響、印刷業の発達によるものでした。

そんなオランダの市民たちの生活はとても優雅。ヨーロッパのファッションの最先端でもあり、世界一の識字率を誇っていました。そこで手紙ブームが起き、男女は恋文を送りあってお互いの愛を確かめました。フェルメール作品にも《恋文》という絵画があり、他の作品にも手紙が登場しています。
フェルメールの恋文
特に富裕層の女性は、教養の高さを男性にアピールする手段として楽器を習いました。

家の壁には必ずと言っていいほど絵画がかけられており、オランダ市民の美術に対する高い関心がうかがえます。市民に人気があったのは静物画や肖像画、風俗画などの生活に密着したようなジャンルでした。その市民たちの様子は、フェルメールの絵画にも表れています。

2020年ロンドン・ナショナル・ギャラリー展で作品が観れる

世界を代表するイギリスの美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリー。

その世界初となるイギリス国外での大規模展覧会「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が東京・上野の国立西洋美術館(2020年3月30日~6月14日)、大阪・中之島の国立国際美術館(2020年7月7日~10月18日)で開催されます。本展では西洋美術史を網羅したロンドン・ナショナル・ギャラリーの特徴が反映されており、ルネサンスからポスト印象派まで、さまざまな作品が展示されます。

そのなかで来日するフェルメール作品は《ヴァ―ジナルの前に座る若い女性》。ヴァ―ジナルとは小型の鍵盤楽器でこの当時ヨーロッパで人気がありました。
フェルメール・ヴァ―ジナルの前に座る若い女性
また、ゴッホ、《ひまわり》(1888)、モネの《睡蓮の池》(1899)、レンブラント、《34歳の自画像》(1640)など61点の作品が展示されます。これらはすべて初来日。

ぜひフェルメールをはじめとする巨匠たちの作品を見に行ってはいかがでしょうか。

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