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レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと並んで、イタリアのルネサンスの顔となっているラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)。
西洋美術に興味がなくても、ラファエロが描く美しい聖母像は1度は目にしたことがあるはずです。
中世的なレオナルド、男性的なミケランジェロの作風と比較すると、優婉な女性らしさを特徴とするラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)の作品は、雑貨のモチーフになることも多々あり。
西洋美術の歴史に大きな足跡を残したラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)、その生涯と代表的な絵画作品をご紹介いたします。
目次
美術史上もっともすぐれた画家の1人
「自画像」 1506年 フィレンツェ・ウフィッツィ美術館所蔵
ラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)は、イタリアルネサンスの最盛期に登場し、30代で夭折しながらも画家としてだけではなく建築家としても活躍した芸術家です。とくに美しい聖母マリア像や実在の女性像は、他の追随を許さない美しさ。ルネサンス時代の高名な芸術家との交流も深く、数多くの優秀な弟子を育成しました。歴史上最も優れた画家の一人として、あらゆる時代の画家や芸術家に影響を与えています。美術用語に「ラファエル前派」という言葉があるように、後世の美術にもラファエルの存在は不可欠とされているのです。
若き日の自画像を見ればラファエロ自身も優雅な美男であることはあきらかで、現在まで女性ファンが多い理由となっています。
また、現代風にそのプロフィールを書いてみれば、画家としてだけではなく建築家という肩書も加わります。
ラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)は、37歳という若さで亡くなったことがしみじみと惜しまれる、偉大な芸術家なのです。
ルネサンスの天才ラファエロの幼少期
10代のラファエロが描いたと伝えられる「自画像」 1499年頃 イギリス 亜種漏れ案博物館所蔵
ラファエロは、本名をラファエロ・サンティ、またはラファエロ・サンツィオといいます。ラファエロ・サンティは、作品にサインをする際にラテン語で「Sancti」と書いていたため、名字にも諸説があるわけです。日本では「ラファエロ・サンティ」、母国のイタリアでは「ラファエロ・サンツィオ」と呼ばれるのが一般的です。また、イタリア語では「Raffaello Santi(Sanzio)」と表記するため、「ラッファエッロ」と呼ばれることもあります。
生まれたのは1483年4月6日。ちなみに、亡くなったのはそれから37年後の同日1520年4月6日でした。レオナルド・ダ・ヴィンチよりも31歳年下、ミケランジェロ・ブオナローティよりは8歳年下です。
ラファエロ・サンツィオの生涯は、イタリアはマルケ州のウルビーノという町からはじまります。ウルビーノは、小さいながらも賢明な当主のもとイタリアルネサンスの恩恵を受け繁栄した美しい町でした。ラファエロの父ジョヴァンニ・デ・サンティは、このウルビーノの宮廷に仕えた画家です。ジョヴァンニ・デ・サンティがカーリの町の教会内に描いた聖母子像には、幼いころのラファエロが天使として描かれています。ラファエロ・サンツィオが8歳の時、母が亡くなりました。その3年後には父ジョヴァンニ・デ・サンティも死去。ラファエロが後年、美しい聖母子像を数多く描いたのは早くに亡くなった母への追慕があったという説もあり。
天賦の才があったラファエロ・サンツィオは、イタリア半島でも有数の文化的都市であったウルビーノで育ち、さらに幼少期に父から絵の手ほどきを受けたことで、後年の基盤を作ったといわれています。
ラファエロ・サンツィオ、ペルジーノの工房へ
ラファエロ・サンツィオが、いつどのようなつてをたどってウンブリアで活躍するペルジーノの工房に弟子入りをしたのかは、わかっていません。美術史家たちの推測では、おそらく父のジョヴァンニ・デ・サンティが存命していたころから、1人息子の才能を見抜いたジョヴァンニがラファエロ・サンツィオをペルジーノの工房に定期的に送っていたのではとされています。
ラファエロ・サンツィオが弟子として参加したといわれている作品には、1497年に制作された『ファーノの祭壇画』や、1498年制作のプリオリ宮殿内のフレスコ画があげられます。とはいえ、現在の研究ではこれらの作品においてラファエロが果たしていた役割は明確になっていません。同じく、1498年頃に描かれたラファエロ・サンツィオのウルビーノの生家に残る『聖母子像』が、ラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)の作品としては最も古いものとして伝えられています。
ラファエロ・サンツィオ、10代で高い評価を得る
『キリストの復活』 1502-1503 52×44 cm ブラジル サンパオロ美術館所蔵
画家としてラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)が独立したのは、わずか16歳の時。当時もペルジーノの工房に属してはいたものの、チッタ・ディ・カステッロという町で制作を開始しました。当時の作品には、まだ師のペルジーノとルーカ・シニョレッリなどの影響が見られるものの、すでに天稟が垣間見えていました。
20歳になるかならないかのラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)でしたが、すでにウンブリアでの名声は高くなっていました。初期の代表作としては、1501年の『コロンナの祭壇画』、1502年頃に描かれた『キリストの復活』1503年制作『聖母の戴冠』などがあります。いずれも、後年描く美しい聖母の片鱗がうかがえます。
ルネサンスの都フィレンツェ、そしてローマへ
『聖母の婚礼』1504年 170×117 cm ミラノ ブレラ美術館所蔵
1503年頃から、ラファエロ・サンツィオはウンブリアを中心にトスカーナやローマにも赴くことが多くなりました。37歳という若さで亡くなったラファエロ・サンツィオ、実は非常に多作の芸術家であり、移動を厭わない画家でした。そのため、イタリア各地にその美しい聖母像を残すことになったのです。
1504年から1508年にかけて、ラファエロ・サンツィオの生涯の中では「フィレンツェの時代」と呼ばれています。一説には、シエナのピントゥリッキオと仕事をしていたラファエロ・サンツィオは、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロ・ブオナローティが『アンギアーリの戦い』をテーマに絵画を描くというほうを聞いて、フィレンツェに向かったともいわれています。
この時代に、ラファエロ・サンツィオはサンガッロ兄弟をはじめとするルネサンスを代表するフィレンツェの芸術家たちと進行を深め、ボッティチェリやドナテッロの作品なども目にし、画家としてさらなる進歩を遂げることになります。もちろん、レオナルドダヴィンチやミケランジェロから受けた影響が非常に大きかったことは、その後のラファエロの作品を見れば明白です。
さらに1508年の終わり、ラファエロ・サンツィオはときの教皇ユリウス2世に招聘されてヴァチカンに赴きます。当時、ユリウス2世のもとにはシスティーナ礼拝堂を飾る天井画や壁画の制作のために、ミケランジェロをはじめとする名だたる芸術家たちが一堂に会していました。ラファエロ・サンツィオもまた1520年に亡くなるまで、ローマで活躍することになります。今もヴァチカンに残る有名な「ラファエロの部屋」や数々の美しい聖母像、当時の貴族たちの肖像画の多くは、この時代にローマで描かれたのです。
また、多くの弟子たちを擁する工房を率い、聖ピエトロ大聖堂のクーポラの設計にも携わっています。
1511年 『アテネの学堂』 500×7.7cm ヴァチカン美術館
ラファエロの死と死因
ラファエロ・サンティ(ラファエロ・サンツィオ)が亡くなったのは1520年4月6日。死因には諸説あります。美男子で女性にもてたラファエロは夜の生活が過ぎたからという珍説もありますが、高熱が続いて発病から15日で世を去りました。
ラファエロ・サンツィオの死を悼み、彼を心からあいしたメディチ家出身の教皇レオ10世はその亡骸をローマのパンテオンに埋葬しました。今でも、パンテオンには「高名なラファエロ・サンツィオここに眠る。生前には万物が凌駕されることを畏れ、死ぬ間際には万物がその死を恐れた」というラテン語の碑文とともにラファエロの墓を見ることができます。
ラファエロ・サンツィオの遺作『キリストの変容』 1518-1520 405 x 279.5 cm ヴァチカン美術館所蔵
聖母の画家ラファエロ・サンツィオ
「聖母の画家」といわれるほど美しい聖母像を数多く残したラファエロ・サンツィオ。聖母だけではなく、神話の女性や実在の女性の肖像画を描いても、凛冽なまでの清らかさが漂うのがラファエロの作品の特徴です。聖母が描かれた作品を一覧で見れば誰もが1度はめにしたことがあるものばかり。その中から、ラファエロ・サンツィオの聖母像のいくつかをご紹介いたします。
草原の聖母
1506年 113×88.5cm ウィーン美術史美術館所蔵
ラファエロ・サンツィオが残した数々の聖母子像の特徴である、ピラミッド型の構図が用いられた作品。
右足を伸ばして座る聖母マリア、よちよち歩きを始めたイエス、十字架をもってイエスに敬意を払う聖ヨハネという愛情あふれた作品です。
伝統に忠実に赤と青の衣装に身を包み、伏目がちの聖母マリアの優雅さはまさにラファエロの真骨頂といったところでしょう。
システィーナの聖母
1513年 269.5x201cm ドレスデン アルテ・マイスター絵画館
可憐な聖母マリアもさることながら、下部にいる2人の天使の愛らしさが非常に有名な作品です。北イタリアはピアチェンツァのサンシスト修道院の依頼で描かれたために、この名前があります。緑色のカーテンによって、よりドラマチックに聖母マリアとイエスの登場が演出されており、ラファエロの円熟を感じさせる作品です。
小椅子の聖母
71×71cm フィレンツェ ピッティ美術館所蔵
おそらく、メディチ家出身の法王レオ10世の注文で描かれた作品。数々残るラファエロ・サンツィオの聖母子像の中でも最も有名な作品であり、円の中でふっくらとしたマリアが赤子のイエスを抱きしめている優しさあふれる作品です。母子の醸し出す人間らしい感情、質感あふれる衣服や椅子の描写などから、ルネサンス時代最高傑作のひとつという評価も。
聖家族
51.5x42cm ミュンヘン アルテピナコテーク所蔵
聖母の衣服の胸元に「RAPHAEL URBINAS(ウルビーノのラファエロ・サンツィオ)」のサインが残ることでも有名な作品。ラファエロ・サンツィオがフィレンツェに滞在していた時代に描かれた作品です。ラファエロの多くの作品にみられるように、レオナルドから影響を受けたピラミッド型の構図になっています。頂点に当たる部分に聖ヨセフ、向かって右に聖母マリア、左側には聖エリザベトが配され、中心に幼いイエスと聖ヨハネの姿が。若々しい聖母マリアが印象的な作品です。その他にも、『大公の聖母』や『フォリーニョの聖母』など数々の美しい聖母子像を残しています。