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ジョットなしではルネサンスは生まれない。イタリアの偉大な芸術家を紹介

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ルネサンスの生みの親ジョット・ディ・ボンドーネについて、代表作など解説
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「最後の審判」ジョット・ディ・ボンドーネ、1306、スクロヴェーニ礼拝堂
https://www.wikiart.org/en/giotto/last-judgment-1306

ジョット・ディ・ボンドーネは、13世紀末期から14世紀初頭にかけてイタリアで活躍した画家です。

「再生」を意味するルネサンスの生みの親であるジョット・ディ・ボンドーネは「ルネサンス絵画の父」と呼ばれています。

ではいったいジョット・ディ・ボンドーネとはどんな画家だったのでしょうか。

ジョットの代表作を紹介しながらルネサンスの先駆者と言われる理由を解説していきます。

少年の頃から画才を発揮

「ジョット((ジョット Giotto)の肖像画」パオロ・ウッチェロ


https://www.wikiart.org/en/giotto

ジョット・ディ・ボンドーネ(ジョット Giotto)は1267年にイタリアのフィレンツェで生まれました。

今から750年以上も前のこと。確かな記録があまり残っていないのが残念ですが、現在一般的に言われているのは、フィレンツェのある村で生まれ羊飼いをしていたということです。

羊飼いをしながらも、岩に羊の絵を描いて人を驚かせるなど評判になり、その頃から画才を発揮。

それを示す一つのエピソードが残っています。

ジョット・ディ・ボンドーネは画家のチマブーエに絵を習っていたのですが、チマブーエの留守中に、ちょっといたずらをして師の作品にハエの絵を付け加えました。

ところが戻って来たチマブーエは、そのハエを本物と勘違いして何度も追い払おうとしたそうです。

ジョット・ディ・ボンドーネの代表作

ジョット・ディ・ボンドーネは1337年に亡くなるまでの70年の生涯の間に、キリスト教関係の絵画をいくつか残しました。

その主なものは、アッシジの聖フランチェスコ(またはフランシスコ)聖堂にあるフラスコ画とバドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のフラスコ画ですが、その他にもルネサンスへの移行を表した「荘厳の聖母」を制作しています。

ジョット・ディ・ボンドーネはまた建築家としても活躍しました。

アッシジの聖フランチェスコ聖堂のフレスコ画

「決まりの確認」ジョット・ディ・ボンドーネ、1297~1299


https://www.wikiart.org/en/giotto/confirmation-of-the-rule-1299

アッシジの聖フランチェスコ聖堂は世界遺産に登録されている建物です。

この聖堂の内壁には「聖フランチェスコの生涯」というフレスコ画が描かれています。

長い間、このフレスコ画の画家はジョット・ディ・ボンドーネだと言われてきました。

ところが最近ではジョット・ディ・ボンドーネのその他の作品と比較すると共通点が少ないことなどから、ジョット・ディ・ボンドーネによるものではないという説も出てきています。

真相がどうなのかは判断しがたいところですが、これまでジョット・ディ・ボンドーネの作品として扱われてきたので、ここで触れておきたいと思います。

聖フランチェスコの生涯

フレスコ画のモチーフになっている聖フランチェスコは、イタリアで最も有名な聖人の一人です。

「裸のキリストに裸で従う」という信念の下、アッシジでフランチェスコ会を創設し清貧であることと罪を悔い改めることを説きました。

「聖フランチェスコの生涯」は、タイトルの通り、その聖フランチェスコの生涯を描いたもの。全部で28枚の絵画から成っていて、聖フランチェスコがどのような生涯を送ったのかが順番にわかるようになっています。

1枚の絵画は縦270㎝、横230㎝という大きなもの。絵の中の聖フランチェスコは頭上に光輪を付けているのですぐわかります。

先にも述べましたが、これらの作品では、絵画の技法が典型的なジョット・ディ・ボンドーネの作品とは異なっています。

画面は2次元でどの人物の顔の表情も似ています。

バドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画

バドヴァにあるスクロヴェーニ礼拝堂に制作したフレスコ画は、ジョット・ディ・ボンドーネが制作したもう一つの大作です。

礼拝堂の側面を3段に分け、上段には聖母マリアの両親ヨアキムとアンナから始まる聖母マリアの生涯を描き、中段と下段にはキリストの生涯が描かれています。

場面数は全部で37。礼拝堂の正面の壁には「最後の審判」のフレスコ画が見えます。

「東方三博士の礼拝」


https://www.wikiart.org/en/giotto/the-arrest-of-christ-kiss-of-judas-1306-1

これは、キリストの誕生を祝ってやってきた東方の三人の博士(賢者)がお祝いの品を献上している様子を描いた作品です。

この場面は「マギの礼拝」と呼ばれることも。

ジョット・ディ・ボンドーネのこの作品には上部に明るく輝く星が描かれています。

ジョットは1301年に現われたハーレー彗星を見て強い印象を受け、それをキリストの誕生と結びつけて作品に織り込んだからとのこと。

それ以降、別の画家たちによって描かれた同じタイトルの作品にも星が描かれたものがいくつかあります。

「ユダの接吻」


https://www.wikiart.org/en/giotto/the-arrest-of-christ-kiss-of-judas-1306-1

「ユダの接吻」は「最後の晩餐」と並んで、キリストを裏切るユダの様子を表している場面です。

ジョット・ディ・ボンドーネの「ユダの接吻」では、キリストを裏切ろうとしているユダの複雑な表情と、そのユダをじっと見据えるキリストの落ちついているともいえる表情が生々しく描かれています。

その時キリストは、すでにユダの策略を見抜いていたと言われています。

さらに画面の向かって左側を見るとナイフを持って一人の男の耳を切り落としている人物の様子が描かれています。

このナイフを持った人物はキリストの弟子ペテロだというのが定説。

いずれにしても登場するすべての人物の表情や身に付けている衣服のしわなどの表現が現実的で自然。

臨場感が溢れ、まるで見る人に迫ってきます。

その他の絵画作品

ジョット・ディ・ボンドーネは上述の2つのフレスコ画の他にも作品を残しています。その内の代表的な作品を紹介します。

「死せるキリストへの哀悼」


https://www.wikiart.org/en/giotto/lamentation-the-mourning-of-christ-1306-1

「死せるキリストへの哀悼」はパドヴァに住むある銀行家が自身が建てたアレーナ礼拝堂のフレスコ画としてジョット・ディ・ボンドーネに依頼したもの。

大きさは縦200㎝、横185㎝。処刑されて死を迎えたキリストを囲んでいる人々の悲痛な様子が生々しく描かれています。

ルネサンスの先駆者と言われるジョット・ディ・ボンドーネは、すでに、それまでの絵画には見られなかった人間の表情を巧みに表現していますが、この作品では、遠近法はまだ取り入れられておらず、また絵の構図もそれまでのビザンチン美術の様式に基づいています。

ジョット・ディ・ボンドーネの作品にはっきりとしたルネサンス的な特徴がみられるのはまだもう少し後のことになります。

「荘厳の聖母」


https://www.wikiart.org/en/giotto/madonna-in-maest-ognissanti-madonna-1310-1

「荘厳の聖母」はジョット・ディ・ボンドーネが1306年から1310年にかけて制作した祭壇画です。

フィレンツェのオニサンティ教会のために描いたもので、現在はフィレンツェのウフィツィ美術館に展示されています。縦325m、横204mという巨大な作品。

一見ごく普通の宗教画のように見えますが、この作品がルネサンスの始まりを象徴する作品であると言われています。

では一体何がそれまでの絵画と異なるのでしょうか。簡単に言えば遠近感があり写実的な表現がされていることです。

絵画における遠近感や写実的な表現は、現代に生きる私たちにとっては当たり前のことで、なぜジョット・ディ・ボンドーネのこの絵が特別なのかはわかりにくいと思います。

ところが、ジョット・ディ・ボンドーネがこの作品を世に出すまでは、絵画はすべて2次元的で人の表情や衣服も写実的ではなくパターン化したものだったのです。

つまり、ジョット・ディ・ボンドーネの画法は当時としては革命的だったということになります。

こうした違いは、ウフィツィ美術館に展示されたもう2つの絵画と比べてみると良く分かります。

チマブーエの「荘厳の聖母(マエスタ)」とドゥッチョの「ルチェライの聖母」


https://www.wikiart.org/en/cimabue/madonna-and-child-enthroned-maesta-1285-1
https://www.wikiart.org/en/duccio/madonna-rucellai-1285

ウフィツィ美術館には、ジョット・ディ・ボンドーネの「荘厳の聖母」を挟んで、同じようなタイトルの2つの絵が展示してあります。

どちらもジョット・ディ・ボンドーネの作品と同じ位の大きさです。

一つはジョット・ディ・ボンドーネの絵の師であったチマブーエの作品(左)、もう一つはイタリアのシエナで活躍した画家ドゥッチョのもの(右)。

これら2つの作品は1280年代に制作されました。

ジョット・ディ・ボンドーネの作品はそれから約20年後に制作。

ジョットの作品の技法はこの2つの絵とは明らかに違っていることがわかります。

チマブーエとドゥッチョの作品は2次元的で平坦。人物の表情や衣服のしわがパターン化されています。

これに対しジョット・ディ・ボンドーネの「荘厳の聖母」には遠近感があり、聖母マリアのあごの下には影が見られます。

また胸のふくらみも自然な感じで描かれ、マリアが着ているマントのひだも写実的です。

こうしたことから、この「荘厳の聖母」はそれ以前に主流となっていたビザンチン美術から抜け出した革命的な絵画であり、ここからよりリアルな人間らしさを表現するルネサンス美術が始まったと言われているのです。

建築の才にも恵まれたジョット・ディ・ボンドーネ

ジョット・ディ・ボンドーネの鐘楼

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Campanile_di_giotto_11.JPG

ジョット・ディ・ボンドーネが後世に残したものには絵画の他に建築物もあります。

「ジョット・ディ・ボンドーネ(またはジョット)の鐘楼」で知られるゴシック様式の鐘楼は、フィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇に作られたものです。

ジョット・ディ・ボンドーネが設計をし、建築が始まりましたが、ジョット・ディ・ボンドーネが基礎部を終わった時点で他界したため、それ以降は弟子のアンドレア・ピサーノに受け継がれました。

この鐘楼は大聖堂と同様に白・緑・赤の3色の色のついた大理石で作られています。

ジョット・ディ・ボンドーネが担当した基礎部には、象嵌(ぞうがん)と呼ばれるはめ込み装飾がなされ、レリーフは56枚あります。

また彫刻も16体飾られています。ただし現在ジョット・ディ・ボンドーネの鐘楼に見られるこうした装飾品はレプリカで、本物は大聖堂の美術館の所蔵。

この鐘楼には元旦、復活祭の日曜日、そしてクリスマス以外であれば登ることができます。

まとめ

「再生」を意味するルネサンスの先駆者として美術史にその名前を残すイタリアの画家ジョット・ディ・ボンドーネ。

ジョット・ディ・ボンドーネはそれまでのビザンチン美術の平面的で単調な表現しかしていなかった絵画に遠近法を取り入れ、人間や衣服などの自然な状態を表現しました。

ジョット・ディ・ボンドーネが起こした美術革命はその後、本格的なルネサンスに発展していきます。

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