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岡崎乾二郎は美術作家であり、また浅田彰とともにこれまでの日本の現代アートをアカデミーの立場から編集してきた批評家でもあります。
金沢21世紀美術館、直島のベネッセハウスミュージアムなど日本全国の美術館やギャラリーのほか、世界各国で展覧会を行うなど、岡崎乾二郎は日本のアートシーンを代表する人物。
2019年末には豊田市美術館にて個展が行われました。作品と言葉をもって美術の世界を支えてきた岡崎乾二郎の活動について紹介します。
目次
岡崎乾二郎のプロフィール
岡崎乾二郎(おかざき けんじろう)は1955年東京生まれ。抽象表現を基礎とする絵画、彫刻、写真、また建築や映画、映像、舞台美術など、アートシーンの先頭に立ちあらゆるジャンルをまたがって作品制作を行ってきました。
また特筆すべきなのは岡崎乾二郎の美術批評家としての活動であり、アカデミックな思想を基礎として日本の美術の土台を作り上げてきた人物としても知られています。岡崎乾二郎の美術批評のコメントは非常に厳しく、美術史や美学をはじめとした並外れた知識と鋭い洞察力を伴った美術批評により、日本のコンテンポラリー・アートの行き先を導いてきました。
そうして日本現代美術史の編纂してきた岡崎乾二郎はまた、近畿大学国際人文学研究所東京コミュニティカレッジの活動である四谷アート・ステディウム(2014年3月31日閉校)を創設し、そのディレクターとして芸術教育に貢献。また武蔵野美術大学の客員教授など多くの肩書を持ち、日本の現代美術を包括的に支えています。
また1994年から広島県北東部の3町によるの地域再生計画の「灰塚アースワーク・プロジェクト」の相談役としての活動、2002年の第8回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展では日本館のテーマ展示のディレクターを務めるなど、岡崎乾二郎は自身の作品制作だけでなく、アートシーンにおいてリーダーシップをとってきました。
これらのような岡崎乾二郎の活動は、とても人間ひとりのアクティビティとは思えないほど精力的。「現代美術の知性の柱」として、浅田彰、黒瀬陽平ら他の批評家をはじめ、杉本博司、白井晟一、村上隆ら画家や建築家など多数のアーティストと関係し、日本のアートシーンを編集しています。2019年現在も作家・批評家として、京都精華大学の公開講座や豊田市美術館での個展の開催など、勢いが衰えることなく活動を続けています。
関連書籍『抽象の力 近代芸術の解析』
岡崎乾二郎の著作の中でも最新のものが、2014年の単著『ルネサンス 経験の条件』に続いて2018年に亜紀書房出版の新刊『抽象の力 近代芸術の解析』。西洋の20世紀美術を中心として日本の近代美術史がどのような変遷をたどり、その実態がどのようなものであったかを解説する著書であり、絵画や彫刻などの視覚芸術が抽象的な表現に至ったプロセスを再定義しています。
戦後美術史を改めて編集し、モダニズムや抽象美術に関する理解を啓蒙する本書は美術関係者必読の一冊。2017年に豊田市美術館で行なわれた展覧会の公式サイト上で公開されていた論考でもあり、岡崎乾二郎が10年ほど執筆していた原稿を集めた論集である書籍『抽象の力』はAmazonにて入手可能。
またAmazonには岡崎乾二郎とその妻で詩人のぱくきょんみとの共著である絵本の『れろれろくん』ほか、岡崎乾二郎の著書が取り扱われています。
美術批評家の役割
岡崎乾二郎のような美術批評家、評論家という仕事は、アーティストたちの作品を批評することでその作家、作品が今のアートシーンでどのような立ち位置におり、どのような影響を持っているのかを明らかにすること。またアートシーンに「〇〇派」「〇〇主義」と名前をつけてその傾向をまとめたり、世間に美術を紹介する仕事など、アートのプロデューサーおよびマネージメントを担っています。
美術批評家はまた学芸員やキュレーターなど美術館、ギャラリーの中枢、研究員、編集者としての仕事と兼任している場合がありますが、岡崎乾二郎のようにアーティストとして活動しながら批評家として活動をすることもあります。
批評家は美術と世間をつなぐ存在であり、アートシーンにとって必要不可欠なもの。美術作家自身が自己あるいは他の作家の展覧会を計画したりプロデュースをすることは普遍的な活動ですが、現状として個々のアーティストの情報発信力は微々たる力です。美術館や大学などの研究機関の関係者となるまで社会全体に働きかけられることは難しく、なおのこと岡崎乾二郎のような影響力のある存在は貴重。
アーティストコミュニティーの繋がりの薄い日本では特に、若い世代の美術評論家の台頭が期待されます。
岡崎乾二郎のアート
《あかさかみつけ》
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1981年の岡崎乾二郎の初個展「たてもののきもち」から始まる初期の代表的作品《あかさかみつけ》は、複雑に交差する赤坂見附の地下鉄をイギリスの建築家コーリン・ロウの著書「コラージュ・シティ」に書かれた都市論に基づいて考察し、制作された作品。このように、岡崎乾二郎はユーモアと学術的な理論をもって、あらゆる分野の視覚芸術を最前線で制作を続けています。
岡崎乾二郎のあらゆる分野で制作される作品のなかでも絵画が中心的であり、カンヴァスにジャムのように分厚く置かれたアクリル絵の具の抽象的かつ物質的な表現が特徴的。しかし、岡崎乾二郎の絵画にはどのようなコンセプトがあり、何を表しているのか、という内容について解説することは困難です。幾何学や知覚心理学などあらゆる学問と結びつけて考察がされてきましたが、この場でそのように特定して語ることは避けたいところ。詳細は論文や著書を参考にしてください。
《くれのうたまいの大笑い》
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ここでは、感性に基づいて最低限の見方で岡崎乾二郎の作品を考えるとしましょう。岡崎乾二郎の作品は一見、絵の具を画面になすりつけた子供のいたずら描きのようでもあり、ときに他の批評家から「絵の具で汚したキャンバスにしか見えない」と批判されることも。しかし素人目にも厚みのある絵の具の質感や色彩のバランスなどから見るものの目に「喜び」の感覚があり、幼児退行したかのような純粋な知的好奇心を誘われます。
下地のない麻の色がそのままのキャンバスに最小限のカラーと、オートマティスムのような人為として無意図的に感じさせるストローク。画面は視覚芸術に置き換えられた俳句や詩のようであり、岡崎乾二郎の独特な作品タイトルとも相まって、作品を見る人の視覚と言語中枢との交流を促されます。
《1999》
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文学や幾何学、数学などあらゆる学問に精通し、批評の厳しさや講義、インタビューの難解さで知られている岡崎乾二郎ですが、作品タイトルに現れるやさしい言葉づかいは詩人である妻・ぱくきょんみの影響を思わせます。数多くの専門家により学術的に考察のなされる岡崎乾二郎の絵画はむしろ、詩、また児童文学的な学童の感覚から鑑賞することで最も単純な「美の探検」を感じられるものなのかもしれません。
もちろん、あらゆる美術作品について考える上では、学びなくして得られるものはありません。ただ、日本の美術界のトップに君臨し、ハイアートの場において独占的な立ち位置にいる岡崎乾二郎の作品だからこそ、あえて「思考なき鑑賞」を実践することのできる絵画であるともいえます。
そのほか、岡崎乾二郎の作品は1979年以降の作家蔵のものも含め、公式サイトで写真を見ることができます。
作品のタイトルについて
岡崎乾二郎の作品は一部が非常に長いタイトルを持つことで知られており、作品とタイトルの深い結びつきを示唆しています。
たとえばこの2016年の作品、《松葉のどの一本も砂浜のどの砂も暗い森のどの霧も草地のどの草も、怒るときがある。泣くときがある。笑うときがある。羽音を唸らせるどの虫も(自らは体温を持たないが)シカ、ワシ、クマの体温が変化するのは分かる。古木が根こそぎ倒れ、松の節だらけの枝の背後で逆さまに滝が落ちるとき、厳寒の冬至の暗い森の中で、樫の巨木に生えたヤドリギが、ただそこだけ異なって、きらきらと新緑の葉を輝かしているとき、陽を照りかえし雪ぎの炎がもえている。》はもはや児童文学のような文章をタイトルとして設定しています。
美術作品には歴史を一貫してタイトルがつけられていたのではなく、一定の時期からタイトルと作品がセットとして扱われるようになりました。アートのタイトルが「無題」である場合と何かタイトルがつけられている場合とでは印象が大きく異なり、タイトルがあることで作品がどのようなものか、鑑賞の方向性を指示する意図があると考えることができます。
岡崎乾二郎の文章をタイトルにした作品は、その画面と対峙したときに文章に関連するイマジネーションを催すのが不可避ですが、文章にある描写を特定できるような具体的な造形は絵画のなかにはありません。むしろたとえるならば脳内の電気信号のような、目を閉じたときにまぶたの裏に見える「もや」のような映像であり、無意識的な鑑賞を余儀なくされます。
会田誠のパロディ
現代美術家の会田誠は、上野の森美術館で行われた「アートで候 会田誠 山口昇」展で岡崎乾二郎の作品パロディを展示しました。
その作品はまさに岡崎乾二郎を批判した「カンヴァスを絵の具で汚した」という言葉そのもののような絵で、タイトルは《美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのような形で取るのだろうか。》といったもの。
浅田彰は岡崎乾二郎とともに厳しい美術批評家として知られ、また岡崎乾二郎の唯一ともいえる理解者でもあり、日本のハイ・アートの場を独占的に導いてきた人物。
会田誠をはじめ、ひと世代以下のアーティストに対する痛烈な批判から、浅田彰と岡崎乾二郎両名は現代美術の「ヒール」としてみられることもあります。しかし、単なる作家のご機嫌取りではなく時には否定を含んだ批判があることで健全なアートシーンが形作られます。
ただ、時に作品そのものの評価ではなく作家の人格否定を含むなど、昭和的なグレーゾーンの倫理観が垣間見られる場合があり、浅田彰と岡崎乾二郎の批評家の体制としては賛否両論あることでしょう。
新作個展「視覚のカイソウ」豊田市美術館
2019年11月23日から2020年2月24日まで、愛知県の豊田市美術館にて岡崎乾二郎の個展「視覚のカイソウ」が開催されました。
この展覧会は2017年に岡崎乾二郎が企画監修した「抽象の力」展に続くものとして、岡崎乾二郎の活動と作品を包括した展示内容。
初個展で展示された、彫刻と絵画の超越的作品《あかさかみつけ》をはじめ、2019年制作の新作までを網羅した大規模展示であり、2019年12月22日には岡崎乾二郎講演会が開催されました。
まとめ
岡崎乾二郎のような批評家の巨頭の存在あってこそ2000年までの現代美術には盛り上がりがありました。しかし、岡崎乾二郎の関わらないアカデミックなハイ・アートを除いた現場では、作家同士や若手作家と批評家のリンクの断裂、また情報が氾濫し、「みんな違ってみんないい」「インスタ映えすれば良い」などというような思考停止が招いた日本の現在のアートシーンはもはや混沌としています。
ただ会田誠が表現したように、浅田彰や岡崎乾二郎が日本の美術界全体を停滞させたという意見も。あるところでは、岡崎乾二郎と肩を並べるほどのインテリジェンスな作家が他にいないという点が惜しまれるところです。
今後の日本の美術界がどのような変遷を辿るのかはこれからの美術作家、そして美術批評家の肩にかかっています。若手の美術批評家の育成や、批評家と美術作家との深い交流がより望まれ、岡崎乾二郎のような重鎮の世代による若い世代へのサポートが期待されるでしょう。