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ZOZOの前澤社長も作品を購入したニューヨーク出身の天才現代アーティスト

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【大解説】映画やアート雑誌では語り尽くせないジャン=ミシェル・バスキア
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2019年下旬、六本木森アーツセンターギャラリーにて開催された『Jean-Michel Basquiat バスキア展 MADE IN JAPAN』では、バスキアが日本にインスピレーションを受けた作品を中心に約130点もの絵画やドローイング、立体オブジェなどが展示されました。

バスキア展では、ZOZO元社長の前澤友作氏が123億円という破格の値段で落札した1982年制作の王冠を被った頭蓋骨の絵画作品《無題(untitled)》も見ることができ、また写真撮影可能な作品も多かったため、話題性に富んだ展示として人気を博しました。前売りチケットは完売、グッズやコラボカフェなど、会場はおおいに盛り上がったということ。

2010年発表のドキュメンタリー映画『バスキア』を通してその名を知った人も多いのではないかと思われますが、この展覧会の影響で、バスキアというアーティストにより興味を持ったのではないでしょうか。ここで、バスキア展のおさらいも兼ね、アメリカ20世紀最後の巨匠と謳われたジャン・ミシェル・バスキアについての概説をまとめます。

ジャン=ミシェル・バスキアというアーティスト

バスキアは、20世紀のアメリカにまるで彗星の如く現れたアーティスト。わずか27歳という若さでこの世を去ってしまったことも含め、世界的に注目を集めました。2018年にロンドンのバービカン・センターで開催された『Basqiat: Boom for Real』を皮切りに、バスキアのアートはいま欧米でも再評価されつつあります。

アメリカでは身一つで業界にのし上がることを「アメリカン・ドリーム」ということがありますが、まさにバスキアはそれを成し遂げた人物。バスキアは20代の若さでニューヨークを拠点に活躍し、アメリカの煮詰まっていたアートシーンに風穴を開けたとして、80年代に伝説的なエピソードを残しました。

幼い頃より美術に高い関心を持っていたとはいえ、美術アカデミー出身ではないバスキアがなぜアメリカのアートワールドのトップに上り詰めたのか。日本の美術教育とアートシーンの縦社会的な構造と比較しても、バスキアは気になる存在ではないでしょうか。

バスキアというアーティストについて、まずは生い立ちからアーティストとして活躍するまでの軌跡、その生涯をたどっていきましょう。

生い立ち

ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basqiat)は1960年、ニューヨークのブルックリンに中流家庭の長男として生まれました。ジャズを愛する父のジェラルドは会計士として家庭を支え、母のマティルデは美術を愛する人物であり、ジャン=ミシェルの芸術活動を応援したそう。家族がバスキアのアーティストとしての出発点であることが伺えます。幼い頃より母と二人でブルックリン美術館やMoMA(ニューヨーク近代美術館)に通いつめ、当時の最先端のアートに触れることによりバスキアは美術に対する洞察力を磨きました。

芸術に親しむ両親と二人の妹をもつバスキアの幼少期は何不自由ないように思われましたが、7歳のころに起こった出来事から大きく変化します。交通事故の怪我が原因で脾臓を摘出し、幼い身体に大きな負担を残すことになり、また手術からまもなくしてバスキアの両親は離婚。これらの因果関係は不明ですが、以降バスキアは父と二人の妹とともに暮らすことになります。

そして17歳のころ、バスキアは父親と衝突を繰り返し高校を中退。その頃出会ったアル・ディアズとともに「SAMO©︎(セイモ)」というグラフィティアートのユニットを組み、ダウンタウンの地下鉄やスラム街を中心にストリート・アートを描きはじめます。これが実質的にバスキアのアーティストとしてのスタートといえるでしょう。SAMO©︎の活動はおよそ一年ほどでしたが、すでにストリートのシーンにおいてグラフィティ・アーティストとしての実力を認められていたといいます。

1978年、18歳のころにはバスキアは実家を飛び出し、実質的にホームレスという立場に。しかし知人の家を渡り歩きつつニューヨークで人気のクラブに通い、アートに関する人脈を広げるなど精力的に活動していました。バスキアはアートスクールで教育を受けたわけではなく、幼い頃から美術館に通いつめたこと、また自らの足で積極的にクリエイターとの交流を図りにいったことにより、アートワールドに参入したのです。

翌年の1979年から、バスキアは文字やイメージを用いた独自のグラフィティを描いたポストカードやTシャツを売るなど、無名のアーティストとして細々と活動していました。しかしバスキアがグラフィティを描き、アーティストとして活動を始めてから無名時代であったのは、17歳から20歳までのたったの3年間。

バスキアは1980年6月にニューヨークのタイムズスクエアで行われた『タイムズ・スクエア・ショー』に出展する機会を勝ち取り、キキ・スミスやジェニー・ホルツァーら当時の新生アーティストと肩を並べてアーティストデビューを果たします。また翌年の81年2月に参加した『ニューヨーク/ニューウェイブ』展にてさらに地名度を上げ、アニナ・ノセイというアートディーラと出会います。彼女はバスキアの最初のディーラーとなり、翌年開催された個展は大成功を納めました。

バスキアはその初個展で、ニューヨークの新しいムーブメントである新表現主義の代表的アーティストとして身を立て、瞬く間にアートシーンにその名を知らしめます。個展が行われた82年は、立て続けにドイツで5年に一度行われるアートの祭典である『ドクメンタ』に史上最年少で出展するなど、驚異的な快進撃を見せました。

バスキアは生涯のうち3,000点あまりの作品を制作したアーティストであり、制作のペースの速さでも知られいました。生前からアメリカをはじめとして世界的にフィーチャーされており、作品の完成と同時に買い手がつくほどその活動は活性的。またバスキアは活動が本格化した頃から、アメリカのポップアートを代表する作家のアンディ・ウォーホルと交友を深め始めます。

アンディ・ウォーホルの顔

バスキアが台頭した当時のアメリカはミニマルアートなどの知的なハイ・アートが主流で、教養ある上流階級の独占的な態度も相まってアートシーンは偏り、停滞していました。より一般にも広く親しまれたアート、例えばグラフィティ・アートのキース・へリングやポップアートのアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタインの台頭もありましたが、全体として白人のアーティストが中心であり、当時のアートシーンは広くアメリカ人全体にとっては退屈なものとなり果てていました。

しかし、その時代に現れたバスキアというアーティストにより、その風潮が大きく転換したのです。ヒップホップの隆盛など黒人のカルチャーシーンが存在感を増していくなか、ストリートの空気を引っさげアートワールドの中心に現れた「黒人のアーティスト」であったバスキアは、瞬く間に80年代アメリカの芸術界の寵児となりました。

「黒人アーティスト」というレッテルの裏側

バスキアと黒人としてのアイデンティティ
しばしば、バスキアは「黒人アーティスト」として、その作品とアフリカンアートとの関連付けを図られることがあります。モダニズムの時代にピカソやマティスが見出したアフリカ黒人彫刻にみられるようなプリミティビズムを正当に継承する芸術家として、雑誌や評論の世界でもてはやされました。

作品の批評も「黒人性の現れたアート」としてみなされることも多いですが、実際のところ、バスキアのオリジンは南米にあり、ブラックアフリカとの関係はアーティスト活動が本格化したのちに逆輸入的に取り入れられたものです。

バスキアはニューヨーク生まれであり、父のジェラルドはカリブ海の国ハイチ、母マティルデもプエルトリコにルーツをもちます。双方ともアフリカ系ですが、文化としてバスキア本人をブラックアフリカンと結びつけるのは無理矢理の感があり、SAMO©︎の活動やバスキアの初期のグラフィティ・アートを見ても、アフリカ民族芸術的な様子は見られません。バスキアの本流はニューヨークのスラム、ストリートカルチャーの血を引くものであり、肌の黒さのみでアフリカと関連づけるのはやや差別的な傾向といえるでしょう。

また、バスキア本人も「黒人アーティスト」としてレッテルを貼られることを嫌いました。バスキアは確かに黒人アスリートやミュージシャンに関連した一連の作品を制作していましたが、それらはバスキアがアメリカのアートシーンで一躍デビューし、有名になった後のこと。自身のオリジナリティーとして黒人文化を持ち合わせているのではなく、穿った見方をすれば「有名なアーティストになる」という強迫観念的な意識から逆説的に黒人的表現を取り入れたにすぎません。

また、バスキアはSAMO©︎の活動から世間の社会に対する意識を敏感に汲み取り、文字やイメージ、シンボルによって皮肉を込めた表現を行ってきました。ディーラーが付いてからも、政治や人種問題など社会性のあるテーマを扱ってきたこと、またバスキア自身が黒い肌のアーティストであることで、ある意味それらの社会問題、ことさら人種問題においては、バスキアの表現は力を持っていたのです。

アンディ・ウォーホルとの関係

バスキアについて語られる時、必ずアンディ・ウォーホルの存在が浮かび上がります。ウォーホルはアーティストとして、また人生においてバスキアに大きく影響を与えました。

アンディ・ウォーホルは、マリリン・モンローやキャンベルスープ缶など、「庶民にとってのアイコン」をモチーフにシルクスクリーン・プリントによる作品を手がけたアーティスト。ハイ・アートの敷居を下げた、現代にも影響の根強いポップ・アートを先導した人物です。

アンディ・ウォーホルのマリリンモンロー

バスキアとウォーホルのファースト・コンタクトは1979年、まだバスキアが無名の頃、ウォーホルがレストランで食事をしていた時にバスキアがやってきて、一枚のポストカードを売ったというエピソードからはじまります。そして1983年、バスキアはドクメンタ出展の翌年に、アメリカを代表する一人のアーティストとしてウォーホルと再開しました。

ウォーホルはバスキアの憧れのアーティストであり、32歳年上と、父親と息子のような年齢差がありましたが、アートカルチャーにおける良きライバルとしてバスキアと正面から向き合った存在です。バスキアは大衆的イメージを用いたり画中で同じイメージを反復するなど、しばしばウォーホルの手法を引用することがあり、ウォーホルを自身が目指すアーティスト像として見立てていました。ウォーホルもまたバスキアを連れてミラノへ旅行に行くなど、二人の交流は和やかなものだったといいます。

バスキアはウォーホルが用意したアトリエで制作し、ときにはウォーホルとコラボレーションをすることもありました。共同制作の作品は150点にも上るほど。

バスキアとウォーホルはアーティストとしてのシンパシーをもち、良き友人でした。バスキアはウォーホルを敬愛し、ウォーホルもバスキアのエネルギッシュな個性と独創性を好んで、二人の共同制作は対等な関係で行われました。

死因について

しかし、1985年の共同制作展『アンディ・ウォーホル&ジャン=ミシェル・バスキア: ペインティングス』はメディアの評価が伸びず、これをきっかけに二人の関係は悪化。当時はアーティストのコラボレーション作品というアイディアが受け入れられず、売り上げが伸びなかったということですが、この時からわずか2年後、交友関係に影が差したまま1987年にウォーホルはこの世を去ってしまいます。

アートだけではなく、その生き方や考え方、ファッションなど全てにおいて良き理解者であったウォーホルの訃報はバスキアをひどく動揺させたといいます。「師弟」という関係ではなく肩を並べるアーティストとしてバスキアを受け入れ、お互いを信頼し、深い友情で結ばれていた関係性が壊れたまま終わってしまったことは、バスキアの精神に強く負荷を与えたことでしょう。

ウォーホルの死によりバスキアは悲嘆に暮れ、アートディーラーとの関係を解消するなど自暴自棄になり、さらに自身の理解者や相談役を失っていきます。そして、翌年の1988年8月12日、薬物の過剰摂取を死因にバスキアは息を引き取りました。

バスキアの生涯はゴッホやジミ・ヘンドリックスなど、若くして命を燃やしたアーティストやミュージシャンに例えられることがあります。独学でギターを学び、ロックミュージック最高のギタリストと謳われるジミ・ヘンドリックスは奇しくも27歳というバスキアと同じ年齢で世を去ったこともあり、黒い肌という共通点からもアメリカのアーティストにおいて共通点が見出されます。

無名の人物が一夜にして巨万の富を手に入れるというストーリーはある意味アメリカに特徴的な経済的ハプニングであり、貧富の差や出自にかかわらず、才能ある人物が見出される世界です。しかし、あまりにも急展開な金銭的成功は若きバスキアの人生を翻弄したのでしょうか。もし、ウォーホル以外にもバスキアと並び立つアーティストや理解者が居たのなら、よりバスキアは作品を残していたのかもしれません。黒人としてアートシーンで孤立してしまったという当時の風潮も悔やまれます。

バスキアは生前『ダウンタウン81』というドキュメンタリー映画に出演しており、80年代のカルチャーとともにその姿を見ることができます。また、ジュリアン・シュナーベル監督が1996年制作した伝記的映画の『バスキア』、2010年制作のドキュメンタリーフィルム『バスキアのすべて』、またバスキアの死から30年経った2017年制作のドキュメンタリー『バスキア、10代最後のとき』など、バスキアの存在は今なお語り継がれています。

ジャン=ミシェル・バスキア 年表

1960年 0歳 12月22日 ニューヨークのブルックリンに生まれる
1968年 8歳 5月 自宅前で交通事故に遭い、脾臓を摘出する
1977年 17歳 アル・ディアズとグラフィティ活動SAMO©︎をはじめる
1980年 20歳 タイムズ・スクエア・ショーに出展、アーティストとしてデビューを果たす
1981年 21歳 2月 ニューヨーク・ニューウェーブ展に出展。ディーラーのアニナ・ノセイと出会う
1982年 22歳 3月にノセイのギャラリーで初個展を開催、6月にドクメンタに史上最年少で出展。ブルーノ・ビショフベルガーをヨーロッパ拠点のディーラーとして迎える
1983年 23歳 3月 ホイットニー美術館のビエンナーレに出展。8月にウォーホルの所有するアトリエに移住する。11月に日本の展覧会に初出展をする
1984年 24歳 美術館にて初個展を開催。ロンドンで巡回展を行う。9月にフランチェスコ・クレメンテ、ウォーホルらと共同制作し、「コラボレーション展」にて発表
1985年 25歳 2月 ニューヨーク「TIMES」誌の表紙を飾る。9月にウォーホルとの共作を「アンディ・ウォーホル&ジャン=ミシェル・バスキア ペインティングス展」で発表
1986年 26歳 11月 美術館での二度目の個展を行う
1987年 27歳 2月22日、アンディ・ウォーホルが死去。追悼作《グレイヴ・ストーン》を制作
1988年 27歳 4月 ニューヨークで最後の古典を行う。8月12日に薬物の過剰摂取により世を去る

バスキアのアート

バスキアは美術を愛好する母親を持ちましたが、アートシーンにコネがあったわけではなく、はじめは人気のクラブに通い人脈を広げたり、Tシャツやポストカードを売るなどして、自身の手で1からアートワールドに切り込むことで力を発揮した、カリスマ的人物。

ただ、バスキアは新表現主義の代表的なアーティストですが新表現主義を創設したりリーダーシップをとった存在ではなく、「寵児」といわれ活躍した人物であり。アートディーラーやキース・ヘリング、アンディー・ウォーホルなどといった有名アーティストたちなど、周囲の期待や助けを得てのし上がったともいえます。

バスキアのアートは、なぜ他のアートディーラーやアーティストたちの心を掴み、ニューヨークを風靡したのでしょうか。また、ZOZOTOWNの前澤社長が落札した王冠の髑髏の絵《無題》はなぜ123億もの高値がついたのか、不思議に思う人もいるでしょう。バスキアの作品について、解説していきます。

ストリート・カルチャー

ストリートアート
バスキアの作品は、ニューヨークのストリートに描いたグラフィティ・アートを出発点とします。現代でグラフィティ・アートといえばイングランド出身の秘密めいたアーティストであるバンクシーですが、1980年代はキース・ヘリングやバスキアのような、ニューヨークのストリートカルチャーに端を発するグラフィティー・アートが主流でした。スプレーでスラム街や地下鉄の壁面に描かれる、文字やイメージの即興的なペイントが特徴です。

バスキアがアート・ワールドに参入する前に活躍していたのが、高校を中退したころ同級生だったアル・ディアスと始めた「SAMO©︎」のグラフィティ・アートの活動。SAMO©︎は「Same Old Shit(代わり映えのしない取るに足らないもの)」の略であり、「バンクシー」のような架空のアーティストとして生み出されたもので、独特の筆跡スタイルと社会風刺とウィットに富んだ言葉のスプレーペインティングは当時のストリートカルチャー界で話題となりました。

ストリート時代のグラフィック・アートはのちに制作される絵画にも大きく影を残しており、バスキアというアーティストの主なオリジンであるといえるでしょう。

新表現主義

新表現主義(New Paintings とも)は、1970年代から1980年代のアートマーケットを熱狂的に盛り上げた美術様式のこと。70年代前半まで台頭していたコンセプチュアル・アートやミニマル・アートの知的で難解、静的な様式に対する「反動」ともいえるスタイルであり、ドイツのアンゼルム・キーファー、イタリアのフランチェスコ・クレメンテなど、当時の若手画家を中心として世界中で巻き起こりました。そして、バスキアはアメリカの新表現主義を代表するアーティストとして知られています。

思考するまでもなくはっきり視覚に伝わるインパクトがあり、攻撃的なまでの色彩と荒々しい表現主義風の筆跡が特徴。また、人物や歴史、神話など文学的な主題を含みますが、バスキアは絵画的イメージだけでなくストリート時代のグラフィティ・アートに端を発する文字を画面上に取り入れたことで特筆されます。

またバスキアはジャズ・アーティストやスポーツ選手の名前や肖像をモチーフに絵画を手がけましたが、バスキアが活動を始めた時期はヒップホップ・ミュージックの誕生と時期を同じくしており、ニューヨーク生まれのバスキアにとって80年代の音楽性は大きな影響源となっています。

正規の美術教育を受けていないバスキアですが、幼少期に体験した美術鑑賞や文学に触れた経験を余すことなく生かし、また当時の美術の風潮を敏感に把握し、表現する才能がありました。アートシーンへの足がかりを自分自身の手で獲得し、アカデミックな抽象表現を踏襲してメインストリームに躍り出ることができたのも、その類稀なるセンスによるものでしょう。南米にルーツを持つ家系でスペイン語やフランス語に堪能だったことからも、バスキアが冴えた頭脳を持っていたということが伺えます。

ちなみに、新表現主義はバスキアのようにそれまで主要なアートシーンから排除されてきた黒人の台頭があったものの、女性作家が排除されてきたのも特徴。よって、新表現主義とは非常に男性的で、時には暴力的なまでに荒々しい表現がみられます。例えばコンセプチュアル・アートやミニマル・アートが「冷たい」芸術だとしたら、新表現主義は「熱い」芸術だといえるでしょう。

作品に現れるシンボル

バスキアは時代の文化や身の回りの環境に敏感に反応し、作品に取り入れてきたアーティスト。7歳の頃交通事故に遭い、入院中に母からもらった解剖学の医術書『グレイズアナトミー』や、幼少時に親しんだゴッホ、トゥオンブリーなどの絵画、当時の音楽、ファッションなどの影響が作品から見て取れます。

バスキアの絵画によく現れるイメージといえば、ストリート・アートからひき続き使用する文字や言葉、またバスキア自身や他のアーティスト、アスリートなどの肖像、解剖学的な透けた人体の図像、そして「王冠」のような象徴的なイメージ。

ここで、これらのバスキアの絵画にみられるシンボルについて解説しましょう。

バスキアの「描く」文字や言葉

バスキアの絵画の文字
バスキアの絵画は、単語や文章などの言葉の情報量に富んでいます。それらはバスキアの表現を代表するものであり、またバスキアの作品を観る人が最も注視する部分といえるでしょう。

バスキアのテキストの内容には傾向があり、

  • 金銭やものの価値に関するもの
  • ストリート時代のSAMO©︎の「©︎(コピーライト)」のように著作権や商品権、広告など
  • ボクサーのジョー・ルイスやサックス奏者のチャーリー・パーカーなど、バスキアが信奉する有名な人物(多くは黒人)
  • 奴隷制や人種差別、マイノリティに関すること(ネイティブアメリカンのシンボルなども)
  • コミックや聖書など幅広く書籍からの引用

これらのように、バスキア自身のアイデンティティーや置かれていた環境、日常的に触れてきた物事などがテキストに現れていることがわかります。

しばしば、美術評論に関して表現に作家の個人性が現れることの是非について問われますが、バスキアの場合は「黒人であること」「ニューヨークのストリートカルチャーにおいて著名であったこと」など、バスキアのパーソナリティ自体が当時のアートワールドにおいて重要視されていました。バスキア個人と関連深いテキストの内容が、バスキアの評価のなかでもかなり重要なものであったと考えられます。

バスキアの言葉の配置で言及されることといえば、バスキアが親しんだ小説家ウィリアム・バロウズの「カットアップ」というスタイルの応用。文章を単語ごとに分解し、不規則に並べ替えることで予想外の文章を再構築したり、同じ単語を繰り返し使用しています。

それらのテキストは「文章」として解読できるものではなく、意味をなさない語順はオートマティズム、シュルレアリスムのような印象も。バスキアの周囲に溢れていた言葉の羅列は、見る人の心理的な深読みを誘うかのようです。

人物、肖像

ZOZOTOWNの前澤元社長が購入した絵画
2019年の『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』ではバスキアの自画像を中心としたコーナーがあり、またZOZOTOWNの前澤元社長が購入したことでも知られる《無題》の印象的な頭部のイメージをはじめ、バスキアの表現は人物を中心としています。

バスキアは人物の描写を本人に似せたり、具体的に特徴を描くことはせず、抽象的化をすることで肖像に匿名性を持たせ、その精神性を表現しました。特にバスキアの自画像には、「傷つき差別された無名のアフリカ系アメリカ人」と「自信に満ち溢れた新進のアーティスト」という二面的なペルソナを表しているといわれています。

また、バスキアが描く人物は多くの場合「黒人」を主人公としています。黒人は欧米のアートワールド、もとい絵画の主題から除外されてきた人種であり、描かれることがあってもそれは「世界の中心人物」としてではありませんでした。バスキアは自身を「黒人アーティスト」として扱われることを嫌いましたが、メインカルチャーにおいて「正統に」黒人を表現できる唯一のアーティストとして、黒人を表現のイメージとして扱うことにプライドを持っていたといいます。

バスキアは「世界から冷酷な差別を受けた黒人」というテーマを、黒人のアスリートやジャズのミュージシャンらの肖像を通して、人種差別の苦しみや怒りをメインストリームに投げかけた人物でもあるのです。

解剖学書の影響

バスキアの作品における解剖学の影響
バスキアの表現における人間の身体の内臓や骨格などの解剖学的な描写は、幼少期に経験した交通事故による脾臓摘出の手術、そしてお見舞いに母から貰ったアメリカ医学界の権威的な解剖学書『グレイズ・アナトミー』、そして幼少期から所有していた『レオナルド・ダ・ヴィンチ』という大型の美術書からはじまるダ・ヴィンチの影響が現れています。

これらの解剖学書などから得た知識から、バスキアの描く人体の絵は落書きのように親しみやすくもありながら、解剖学的に詳細な構造の描写がみられます。また、解剖図的な題材に古典絵画を引用している作品も多いですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿にある画像は特に言及されることがあります。

なぜかといえば、バスキアの生涯最後の展覧会で発表された《死との相乗り》がダ・ヴィンチの寓意画にインスパイアされたものであり、「死」へと向かうバスキア自身を表していると考えられているから。芸術家が「死」と自身を重ね絵画中に表現するのはルネサンス期からある手法であり、美術史に勤勉だったバスキアもこれを意識していたことと思われます。

「王冠」のアイコンが意味するものとは

王冠のモチーフが多いバスキアの作品
バスキアの作品のシンボルとして、テキストに次いで「王冠」のイメージも目立ちます。これは現在はアメリカ、ロサンゼルス現代美術館館長でもある、ギャラリストおよび美術評論家ジェフリー・ダイチの「仕掛け」であり、彼がバスキアの絵画の中でも「王冠」のイメージに注目させるようオーディエンスを促したということです。

王冠はバスキアが「創作世界のキング」であるという象徴であり、絵画の中ではバスキア自身を含め、その世界で類稀なる才能を発揮している人物の肖像の頭上に掲げられています。

ダイチはバスキアの作品について、「鑑賞者のアートにまつわる教養を問わず人々を惹きつけるもの、と評価しています。ある意味ジェフリー・ダイチとは、バスキアをニューヨーク・アート界のメインストリームの「王座」に据えた人物ともいえるでしょう。

当時のアートシーンに一気に躍り出た「キング」、バスキアの見る世界とは、どのような風景だったのでしょうか。黒人でありマイノリティとしての孤独、またトッププレイヤーとしての孤独が、3,000点をも超える作品制作に向かわせた原動力のひとつであるのかもしれません

バスキアの作品コレクター

バスキアは生前から、アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングら時代を代表するアーティストをはじめ、ミュージシャンのマドンナなど、広くアメリカを中心に交友を持っていました。また、コレクターとしてはミュージシャンのデヴィッド・ボウイ、俳優のレオナルド・ディカプリオやジョニーデップというセレブリティの名前も連なります。

また、2019年の『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』に提供したこと日本国内でも知られるバスキアの1982年の作品《無題》を所有する前澤友作氏も「バスキア」の名とセットになり、国際的に話題となりました。

ZOZO元社長、前澤友作の落札とバスキアの再評価

日本人でバスキアの作品を所有する人物としては、ZOZOの元社長、前澤友作氏が有名。ニューヨーク・クリスティーズのオークションにて、当時のレートで日本円にして約123億円という巨額をもって1982年制作の《無題》を落札した出来事は2017年のニュースにもなりました。

この《無題》が制作されたのは、バスキアがストリートのグラフィティ・アートから本格的な絵画制作へと移行し、ニューヨークにて初個展、また史上最年少でドクメンタに出展した、まさに快進撃のさなか。前澤友作がこの絵を驚くべき金額で落札したことにより、バスキアというアーティストの存在は再び世界中に注目されるようになります。

オークションで付けられる値段が直接的にその作品の美術史価値を示すわけでは決してありませんが、上記の出来事によりバスキアの作品はアメリカのポップカルチャーとして現れては消える一時的な流行ではなく、「見直すべきアート」として美術館も再評価をする動きとなっています。

「バスキアの作品にそんな大金をかけるなんて」と一部では批判もありましたが、前澤友作氏の行動はバスキアを再びアートワールドの主流に押し返した発端として、おそらく美術史の片隅に残る話題となるでしょう。

“メイド・イン・ジャパン”

メイド・イン・ジャパン
2019年9月〜11月に日本の六本木森アーツセンターギャラリーで開催された『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』。2018年にはパリのフォンダシオン ルイ・ヴィトン、2019年6月にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で展覧会が開かれ、欧米で最注目を集めていたバスキアの日本初の大規模展覧会です。

この展覧会は《メイド・イン・ジャパン》というタイトル冠した作品を中心に、バスキアと日本の意外な関係を掘り起こすものとして、現代のバスキア研究の第一人者である美術史家のディーター・ブッフハートをキュレーターに迎え、個人所有の作品が多く開催が難しかった大規模展が実現しされました。

チケットは当日一般2,100円と美術展としては高額でしたが、来場者が合計約20万人にも登る人気となりました。前澤友作氏の落札した《無題》が展覧会ポスターやチケットに用いられていたことでも、記憶に残る展覧会となったのではないでしょうか。

バスキアと日本はどのような繋がりがあるかというと、作品制作のインスピレーションとして当時アメリカで革新的であったウォークマンやテレビゲームなど、日本の製品が絵画のモデルとなったという点。「日本製」という烙印は70~80年代のアメリカにおいて最先端の象徴であり、バスキアによる「MADE IN JAPAN」また「YEN」、そして日本語で「トーヨーのおりがみ」というテキストが描かれた絵画は非常に印象的でした。

これらの日本製のアイテムをテーマに取り入れた作品は皮肉を含み、「親日の作品」というものでは決してありませんが、日本人としてユーモアの感じられるキュレーションであったといえます。

展覧会図録やグッズも充実し、バスキアの絵画がプリントされたTシャツ、パーカー、トートバッグ、またスケートボードなどストリートカルチャーに関連したグッズも販売されました。

バスキアというアーティストは前澤友作氏、そしてこの展覧会を通し、いまアートに関心を持つ日本人の多くがその名と作品を把握しています。バスキアがアートワールドの先端で再評価をされたことも含め、バスキアが美術史のなかでどのような地を占めるのか、今後も引き続き注目していくべきでしょう。

まとめ

現代のアートシーンでは、「ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)」という、社会への問題提起や、閉ざされがちであるアートの外側の社会と深く関わる目的を持った美術のありかたが注目されています。

コンセプチュアル・アートなど知的な作品はいまなおメジャーで、大学などアカデミックの内部と外部で世界が遮断されている傾向にあるなか、バスキアをはじめとした新表現主義のようなアートを見直す動きは、閉鎖的な日本のアートシーンにおいてより大きな意味があるでしょう。

バスキアの作品は、本来はアウトサイダー・アート(美術大学などのアカデミーで正規の美術教育を受けていない作家による美術)に分類されていてもおかしくはありませんでした。そんなバスキアがアートシーンのメインストリームに躍り出たということは、バスキア本人の凄さもあわせ、アートワールドに起こった革新的な出来事だったのです。

またバスキアは黒人として社会的なマイノリティであったこともあり、ソーシャリー・エンゲージド・アートと無関係な人物ではありません。この数年まで、欧米の美術館のほとんどがバスキアの作品を所持していませんでしたが、バスキアが世界的に再評価されることで日本のアートシーンに与えられる影響も少なからず期待されたことでしょう。

『バスキア展 メイド・イン・ジャパン』の開催にどのような意味があったのか。ただの「イケてる絵画」「バズった絵画」としてだけではなく、あらためてバスキアのアート、そしてその生涯の出来事について、作品や映画を通してたどってみてはいかがでしょうか。

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