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Date: 1831 / Location: Private Collection
2013年に世界遺産として登録された富士山。多くの日本人にとって心のふるさとである富士山は、昔から絵画のモチーフとしてよく取り上げられてきました。日本人ならやっぱり気になる富士山絵。どのような画家がどのような富士山を絵に表現してきたのでしょうか。富士山絵を描いた画家の中から有名な10人をご紹介します。
江戸時代以降の有名富士山絵画家10人
日本のシンボルの一つである富士山。高い建物がほとんどなかった江戸以前は、日本国内のかなり離れた所からも富士山を観ることができたそうです。夏でも冠雪を抱き高くそびえ立つその姿は畏敬の念を起こさせ、崇拝の対象として人々の心に根ざしてきました。
そして雄大で美しい富士山は、昔から数多くの画家達によって絵にも収められてきたのです。季節や天気、また見る角度などによって、多くの顔を持つ富士山を、有名な画家たちは自分たちなりに受け止め、独自の技法を用いて絵に表してきました。ここでご紹介する絵を通して10人の画家達が富士山に対してどのような思いを持っていたのかをお伝えしたいと思います。
葛飾北斎
富士山絵画家の筆頭と言えば、まず頭に浮かぶのが、江戸後期の浮世絵師「葛飾北斎」です。富士山を様々な地点から見て描いた「富嶽三十六景」は世界的にも知られている有名な作品。その中でも不動の富士と躍動の波を一枚の絵に表現した「神奈川沖浪裏」や「赤富士」の名前でも知られる「凱風快晴(がいふうかいせい)」は北斎の非凡な才能を表すものとして高く評価されています。
人物としての北斎は、自身の名前と住む場所を何十回も変えた「風変わりな人」としても知られています。また89歳という長い人生を生きたわけですが、亡くなる直前まで創作活動を続けたと言うのですから驚きですね。富士山絵とは異なりますが、長野県小布施市にある岩松院には北斎が亡くなったその年に描いた天井画「大鳳凰図」が残っています。
代表作
- 凱風快晴(富嶽三十六景より)、神奈川沖浪裏
など
歌川広重
歌川広重は、北斎と同様に江戸時代後期に活躍した画家の1人です。広重の富士山絵として有名なのが「駿河薩夕之海上」などで知られる「富士三十六景」。その一方で、広重の富士山はかの有名な「東海道五十三次」のいくつかの絵の中にも描かれています。日本橋から始まる五十三次では、富士山は川崎の絵から見え始めます。
最初は遠くにうっすらとした白い影のようにしか見えませんが、近づくにしたがって特徴が現れてきます。最も大きく描かれているのが「原」の宿場町の絵。このように広重は風景画を中心に数々の傑作を生みだしました。特に絵の中に使われている独特の青色はゴッホやモネにも大きな影響を与え、「ヒロシゲブルー」の名前で世界的にも知られています。
代表作
- 富士三十六景 駿河薩夕之海上、東海道五十三次
など
司馬江漢(鈴木春重)
司馬江漢(しばこうかん)は江戸時代後期の蘭学者ですが、「鈴木春重(すずきはるしげ)」の名前で知られる画家としても有名。初期の頃は、浮世絵師として人物画を主に描いていましたが、1788年に長崎に旅をする機会があり、その道中に見た富士山に心打たれ、それ以降富士山の絵をよく描くようになったと言われています。
当時オランダなどの西洋文化が流入していた長崎では、洋画の影響を強く受けていました。そんな長崎に到着した江漢は、カンバスに使われている油絵具を見てエゴマ油を顔料と混ぜ合わせることを思いつきます。そうして作られたのがエゴマ油絵具。こうしたことから、司馬江漢は、日本における「洋風画の先駆者」とも言われています。富士山絵の代表作「駿河湾富士遠望図」では、富士山の背後から光が差す駿河湾をゆったりとそして美しく描いています。
代表作
- 富岳図、駿河湾富士遠望図
など
酒井抱一
酒井抱一(さかいほういつ)は江戸時代後期に姫路藩主の子供として江戸で生まれました。そのため裕福な生活を送り、狂歌や浮世絵をたしなんでいましたが、後に尾形光琳の作品に強い影響を受けるようになります。酒井抱一の作品にはススキやキキョウなどの草花を描いた絵が多いのですが、富士山の絵も残しています。
その代表作「絵手鑑(富士山図)」は、深い青色の空を背景に、くっきりと姿を現したベージュ色の富士山を描いたもの。富士山の中腹にたなびく金色の雲が動きを表現し、山の上には真っ赤な太陽が浮かんでいます。江戸時代に描いたとは思えないようなモダンなセンスを感じられる作品です。
代表作
- 富士山図
など
長沢芦雪
長沢芦雪(ながさわろせつ)は京都で生まれた江戸時代中期の画家。松の絵など「写生派の祖」と言われた「円山応挙(まるやまおうきょ)」の一番弟子でもありました。
人物としては自由奔放な性格であったため師である応挙から何度か破門されたという話も残っています。芦雪の作品にはそうした性格が見え隠れします。例えば、今にも飛びだしてきそうな虎を描いた「虎図襖」では、寅と題しながらもどう猛さがなくどこか猫のようにさえ見えるそんなユーモラスな画風を造り出しています。
その一方で、富士山絵の代表作である「富士越鶴図(ふじえっかくず)」では、富士山をバックに、鶴の群が一列に並んで飛ぶ様を優雅に描いており、趣のある作品として評価されています。
代表作
- 富士越鶴図(ふじえっかくず)
など
谷文晁
墨で描いた白黒の「富士真景図」。すくっとそそり立つ富士山の中腹に白い雲が広がりその眼下に松並木が並ぶ写実画。これは江戸時代後期の画家「谷文晁(たにぶんちょう)」が描いた富士山絵です。文晁は十代の頃から狩野派の絵師に師事しましたが、後に円山派や土佐派などいくつかの流派の技法を学び、大和絵だけでなく朝鮮画や西洋画など、流派を越えて独自の世界を築いていきました。
こうした経緯のため、江戸画壇の重鎮としてその座を不動のものに。文晁の影響を受け、妻や妹など家族の中からも画家が生まれ、また画塾「写山楼」を開き後進の育成に尽力しました。作品には風景画が多く、その中でも富士山を好んで描いていたと言われています。
代表作
- 富士真景図
など
亜欧堂田善
亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)は江戸時代後期に福島県で生まれました。本名永田善吉。江戸時代に生まれながら日本画と西洋画の画法をうまく調和させることに成功し、それまでになかったような作風を打ち立てた画家の1人です。夕暮れの両国の風景を描いた「両国図」はそうした画法の代表的な作品ですが、富士山絵も残しています。
代表作は「甲州猿橋之眺望」。この絵では、中央部に日本の橋とは思えないようながっちりとしたアーチ型の石橋を大きく描き、それと対照的に右の奥に青い小さな富士山を描いています。表現方法も日本的でありながらどこか西洋的。そんな不均衡さに惹きつけられてしまう不思議な作品です。
代表作
- 甲州猿橋之眺望
など
横山大観
葛飾北斎が江戸時代の富士山絵の大家だとすれば、横山大観(よこやまたいかん)は近代における富士山絵の大家だと言うことができます。明治元年に水戸で生まれ、後に岡倉天心に師事しました。生涯に渡って描いた富士山絵はなんと1000点以上!なぜそれほど多くの富士山絵を描いたのでしょうか。そのきっかけとなったのが若い時に登った立山での経験。
立山山頂からはアルプス連峰や日本海が見えたのですが、遠方に見えた富士山の姿があまりにも美しく感動し、それ以来とりつかれたように富士山の絵を描くようになったと言われています。大観の代表作でもある「乾坤(けんこん)輝く」は、後光の差す富士山を背景に7羽の鶴が飛んでいく様を表現した力作です。
代表作
- 乾坤輝く
など
片岡球子
富士山はその雄大な姿が男性的であるためか、富士山絵を描いた画家はほとんどが男性ですが、唯一ここで紹介したい富士山絵の女流画家が片岡球子(かたおかたまこ)です。1905年の北海道生まれ。当時としてはごく普通の家庭で育ったのですが、まだまだ女性の地位が低い時代でしたから普通に結婚して家庭に入るような人生を期待されていました。
そうした親の希望に反して自身の意思を貫き画家になり、しかも多くの富士山絵を残したことは高く評価されています。歌舞伎や能など日本の伝統工芸をモチーフとした作品が多いのですが、1970年頃からは富士山の絵を好んで描くようになったと言われています。代表作である「面構 葛飾北斎」は北斎の「赤富士」を背景に北斎自身が座っているというユニークな構成。「北斎と一緒に写生をしているような気持ち」を表現した傑作です。
代表作
- 面構 葛飾北斎
など
絹谷幸二
絹谷幸二(きぬたにこうじ)は戦時中に奈良で生まれました。今でも現役で活躍中です。長野冬季オリンピックの公式ポスターの絵となった「銀嶺の女神」の画家として知られていますが、富士山の絵もいくつか描いています。絹谷の作品はどれもピカソやダリを思わせるような奇抜な構成と鮮やかな色彩が特徴。
富士山の絵も同様で、「不二法門」や「日月春春湖上不二」では、どちらも赤い富士を描いていますが、そのまわりに龍や桜などをドキッとするようなあざやか色彩で配置しています。どの作品も躍動感に溢れた強さがにじみ出ています。また「新世紀朝陽富士」では白い冠雪を抱いた富士山が初日の出を受けて初々しく立ち誇る様を表現しています。
代表作
- 新世紀朝陽富士
など
まとめ
日本のシンボル富士山の絵を描いた画家10人をご紹介しました。特に江戸時代中期から後期に掛けて多くの富士山絵の画家が輩出しました。庶民文化が発達したこの時期に旅をしながら風景画を描く画家たちの様子がうかがえます。旅の途中で出会った富士山の神々しい姿にはさぞかし深い感銘をうけたことでしょう。
近年になってからは、富士山の写実から離れ自分なりに創作した作品が目立つようになります。富士山は、江戸時代であれ近代であれ日本人ならやっぱり気になる存在ですね。