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フランス・パリで活躍した有名画家の絵画を解説

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藤田嗣治の代表作の1つ《カフェにて》を解説
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藤田嗣治は、またの名をレオナール・フジタとして知られる、戦時中の日本を代表する19-20世紀の画家。日本人で唯一のフランスはエコール・ド・パリの画家であり、日本画の技法を油彩画に取り入れたこと、そして「乳白色の肌」といわれる淡く美しい女性裸婦像の絵画で、西洋のアートシーンで絶賛された人物です。

戦争の従軍画家としても美術史の中で重要な立ち位置を占める藤田嗣治ですが、戦後、フランスに向かう途中にニューヨークで手がけた絵画《カフェにて》(もしくは《カフェ》)は、その「乳白色の肌」の描写も含め、藤田嗣治の魅力の詰まった作品。

その藤田嗣治作《カフェにて》をより深く知るため、藤田嗣治その人や「乳白色の肌」の秘密、そして《カフェにて》の作品が描かれた背景などを紐解いていきます。

《カフェにて》で知られる藤田嗣治はどんな画家?

藤田嗣治(ふじた つぐはる)は1886年、東京都の医者の家系に生まれ、20世紀のフランスで活躍した美術家。淡い色彩の特徴的な油彩画やリトグラフに現れる、「乳白色の肌」と呼ばれる独特な質感の女性の肌の描写をもって、西洋画壇に評価をされた人物です。日本を出てフランスに帰化し、洗礼名の「レオナール・フジタ」の名としても知られています。英語表記ではレオナード・フジタ。

オダギリジョー主演の藤田嗣治をモデルにした映画『FOUJITA』や残された写真でもみられる特徴的なオカッパ頭と眼鏡や服装から、ファッションにおいても注目され、美術館の展示でも人気を誇る藤田嗣治の画家としてのキャリアは、従軍戦争画家としての活動、そして20世紀エコール・ド・パリの活動のふたつに分けることができます。

まず、藤田嗣治の作品は、代表作のひとつ《カフェにて》や《タピスリーの裸婦》などの白く滑らかな「乳白色の肌」で描かれる女性画が主に知られていますが、戦争画家としての経歴や作品は、あまり知らないというひとも多いのではないでしょうか。順を追って、経歴をみていきましょう。

藤田嗣治の父は軍医であり、小説『舞姫』でもしられる医師の森鴎外の後任でもありました。幼少時から美術に秀でていた藤田嗣治は、その森鴎外の勧めで東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し、西洋画を学びます。

20世紀初期の西洋画壇は、日本にもフランスで起こった印象派の影響が強く、東京美術学校も例に漏れず、フランス留学帰国後に印象派や写実主義を持ち帰った黒田清輝ら教壇の独占的な風潮に満ちていました。藤田嗣治の作品は、学校や日本の画壇では評価されず仕舞いだったといいます。そして卒業したのち、一度目の結婚するも、破綻を厭わず単身フランスに渡ります。

藤田嗣治が渡仏したのは1913年、父親の資金援助を得て26歳の頃。パリのモンパルナスにアトリエを構えました。当時のパリではすでに日本の画壇で支配的な様式であった印象派は脱却され、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが代表するキュビズムや、アンドレ・ブルトンの思想活動から起こったシュルレアリスムが台頭していました。

シュルレアリスムの代表作
それらのような西洋のアートシーンの先進であるパリの画壇を目の当たりにし、藤田嗣治は東京美術学校の教えから完全に脱却することを決意。藤田嗣治の活躍の地は、後進的な日本の画壇ではなく、世界的なアートの中心地として革新を遂げるパリにあったのです。

そうして、藤田嗣治はパリにて自身の作風を模索します。1914年、藤田嗣治が渡仏した翌年から第一次世界大戦が勃発し、長期化する中でなんとかフランスに留まりつつ、絵画制作を続けました。そのなか、画家のモディリアーニやスーチンをはじめ、ピカソや詩人のジャン・コクトーら、モンマルトルやモンパルナスに集まった芸術界偉人たちとも交友を結びます。

大戦が始まると、それまでの資金援助が途絶え、また藤田嗣治の絵はまだ売れなかったこともあり、衣食住にも困るほどの生活であったとか。しかし、1917年にフランス人画家のフェルナンド・バレーとの電撃結婚をきっかけに人脈を広がったことで、作品を公開する機会も増え、低価格でも少しずつ絵が売れるようになります。

1918年に第一次世界大戦が集結。その翌年の1919年に、藤田嗣治はサロン・ドートンヌに初入選を果たします。このころすでに確立させていた「乳白色の肌」が評判を呼び、藤田嗣治は「エコール・ド・パリの寵児」と言わしめるほどの名声を手に入れます。

藤田嗣治が活躍したパリの風景
それからというもの、藤田嗣治の芸術活動には追い風が吹き、サロン・ドートンヌの審査員として選ばれるほか、1925年にはフランスやドイツから勲章を贈られるなど、ヨーロッパの画壇をはじめ世界的に高い評価を得ます。

しかし、国際関係が悪化するなか、1938年から1939年は日中戦争の従軍画家として中国に渡り、同年、第二次世界大戦が勃発。パリに帰るも日本に帰国することを余儀なくされ、そのころ世界的に評価されていた藤田嗣治は陸軍美術協会理事長に就任し、戦争画を手がける主な画家として活動することになります。

戦争画は、国民の戦意を上げるためのプロパガンダとして日本軍の依頼により描くことを命じられたもの。藤田嗣治は上野美術館の大東亜戦争美術展に絵画を出品するほか、陸軍航空本部や海軍省に戦争画を献納します。美しい「乳白色」の見る影もない、痛烈なリアリズムの描写の藤田嗣治の戦争画は、命じられた「戦意高揚」のためというよりも、戦争の起こす悲惨な状況をそのまま描くものでした。

1945年、日本が敗戦すると、陸軍美術協会の理事長として戦争画の責任を一身に負わされ、アメリカからイギリスを経由しパリに逃げ延びます。戦争画の責任追及は藤田嗣治の画家としての人生に闇を落としました。「絵描きは絵に誠実に、絵だけを描くべきだ」といった言葉を残し、藤田嗣治はそれから一度も日本に戻ることはなく、フランスで残りの人生を過ごします。

そうして1955年にはフランスに帰化しフランス国民となり、1959年にはカトリックの洗礼を受け「レオナール・ツグハル・フジタ」という洗礼名を授かりました。それからは特に、宗教画の制作や礼拝堂の建設など、キリスト教美術を手がけるようになります。

平和で美しい、猫と女性像を愛した藤田嗣治の絵画の「乳白色」の「光」と、戦争画の「闇」の部分において、戦争画ではなくエコール・ド・パリの黄金時代の藤田嗣治の絵が現代にも多くのファンがいることを、きっと藤田嗣治は快く思うでしょう。藤田嗣治の筆は争いのためではなく、その追い求めた美のためにあるのです。

藤田嗣治の「乳白色の肌」の秘密

藤田嗣治が1949年、第二次世界大戦後、戦争画の責任を問われフランスに亡命する途中に滞在したニューヨークで描き上げた、代表作として人気の高い《カフェにて》についてお話しする前に、その絵に現れる「乳白色の肌」の秘密についておさらいしましょう。

藤田嗣治が絵画中に使う、金属のように冷たいようでいて、しっとりとした体温を感じさせる、どこか妖艶な温度の独特のミルク色の肌の表現は1910年代からその作品に見られはじめます。

その「乳白色」の色味は肖像画や自画像、また《カフェにて》にもみられるように着衣の人物像にも使われていましたが、1923年ごろからは主に裸婦像の肌の表現のために使われるパターンが見て取れるでしょう。

女性関係が派手で、人生のなかで5度も結婚したことに加え、愛人も多かった藤田嗣治の描く女性像には、清廉かつ後ろめたくなるようなエロティシズムが感じられますが、その乳白色の肌には藤田嗣治の女性経験や女性に対する憧憬の感情を感じ取ることができます。

しっとりとしてなおかつマットな質感を持つ藤田嗣治の乳白色の肌の描写は、フランスで「グラン・フォン・ブラン(素晴らしい白)」といわれ絶賛されますが、藤田嗣治はその技法を生涯明かそうとしませんでした。後年の研究により、その材料や技法が明らかになります。

まず、藤田嗣治が使用していた画材について。藤田嗣治は日本から日本画の画材をパリに持ち寄りました。本来、墨や水彩用の絵筆は油彩画には使用されませんが、藤田は日本の絵画を西洋画に持ち込むことをまず自分のオリジナリティとして定めました。

また、藤田の乳白色の肌の部位の成分研究により、白色の発色の基礎となる顔料には、古くから洋画に使用されてきた「鉛白」という成分が使われています。この「鉛白」は、江戸時代には舞妓、芸妓のおしろいとしても使われ、鉛中毒を引き起こし問題となった化粧品でもあります。

そして、残された写真資料から、ベビーパウダーとして今でも利用される和光堂のシッカロールをその肌の下地に使用していたことが明らかになっています。つまりは、藤田嗣治の描く艶かしい女性の肌の描写には、古来からの女性の化粧品が原料とされていたのです。

女性の肌を白く、滑らかに見せることに使われる化粧品を絵画の素材として使うことで、その生々しい触覚を感じられるというのは納得のいくもの。絵画中にのみ存在し、背景や他の対象と同列の世界線で描かれる絵画と異なり、その女性像の「触感」を画面の「窓」から現実世界へ押し出したことが、藤田嗣治の独自の試みとして高い評価を受けている理由のひとつでしょう。

また、藤田嗣治の乳白色の肌には、その存在感を引き立たせる「黒色」が傍にありました。一般的に日本画の制作に用いられる面相筆を使い、墨の黒を油彩画に利用してその輪郭を掘り起こすように描くことで、「乳白色の肌」はいっそう画中でその存在の重みを増します。

シッカロールが刷り込まれた画布は、普通は油彩の上でツルツルと滑ってしまう墨汁を画面にしっかり留めます。光を吸収するマットな時の肌質の表現、そして黒い墨の描写からなる表現が、パリの画壇に新しい風を吹かせたのです。

作品解説《カフェにて》

ここで、藤田嗣治の代表作のひとつとして知られ、乳白色の肌の描写も見られる作品《カフェにて》を解説します。

《カフェにて》の絵画に描かれているのは、肩の膨らんだ黒いドレスに身を包んだ女性が、カフェのソファ席で頬杖をついて物思いに耽るという図。そのテーブルの上の女性の手元には、黒のハンドバッグ、赤ワインの入ったグラス、インクの滲んだ裏返しの便箋、インク瓶が置かれています。人物は女性の他に、山高帽を被った男性、フランスのギャルソンを思わせる男性の姿が見られます。

この《カフェにて》が描かれたのは、第二次世界大戦終結後、藤田嗣治が戦犯として日本を追われパリに向かう途中のニューヨーク滞在時の1949年。そう、この絵はフランス語のレタリングが見られるものの、フランスで描かれたものではありません。

この藤田嗣治の《カフェにて》もしくは《カフェ》にはいくつかバージョンがあり、その違いは大きく2つに分けて、背景の建物に書かれた文字「LA PETITE CLAIRE」と「LA PETITE MADELEINE」の違いに代表されます。その「クレール」とは藤田嗣治の最期の妻君代の洗礼名であり、「マドレーヌ」とは君代の前妻にあたる4人目の妻の名前です。

藤田嗣治のカフェにて、12種類
山高帽の紳士やギャルソン、前妻や、藤田嗣治が日本から逃げ延びる途中離れ離れになった妻の名前など、この《カフェにて》の絵の中には、藤田が生涯の「故郷」として定めたフランスの生活の面影が多く垣間見えます。そして書き損じた手紙を前に思考する女性像はむしろ、パリで築き上げた光に満ちた生活に想いを馳せる、当時戦犯として日本を追われた藤田嗣治その人自身の自画像のようにも思えるところも。

現在、この《カフェにて》のバージョンのひとつは、株式会社ニトリが所得し、2018年には北海道小樽芸術村にて公開されました。また、過去には2015年に国立近代美術館の『momatコレクション 藤田嗣治、全所蔵作品展示』や2016年の府中市美術館開催の『藤田嗣治展』など、藤田嗣治が近年でまた注目を集める画家として扱われ、その代表作として《カフェにて》はそれぞれで公開されています。

藤田嗣治の絵画の集大成であり、そして戦争画の全責任を押し付けられてからのフランスへの郷愁など、《カフェにて》は藤田嗣治が骨を埋めた理想郷であるパリとのつながりの深い作品なのです。

まとめ

《カフェにて》の絵画には、それを単体として見るだけではわからない深い背景があることがわかります。第二次世界大戦までの避けられない従軍画家としての経験は、藤田嗣治の芸術家人生に暗い影を落としたものであり、《カフェにて》はその記憶と戦犯として問い詰められたことの痛みから、藤田嗣治自身を救済するものであったようにも捉えられます。

藤田嗣治が残した言葉「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界基準になって下さい」という言葉は、現代の日本のアート界にも深く突き刺さる言葉なのではないでしょうか。ヨーロッパのアートシーンを追いかけるのみであった後進的な日本画壇に反抗して自ら新たな表現を切り開いた画家として、戦争画を描かなければいけなかった画家として、この藤田嗣治の言葉には大変な重みがあるでしょう。

おそらく今後も藤田嗣治展が開催されるときには《カフェにて》も展示されることだと思われます。もしこの絵画を目の前にした時には、これらの経緯を思い返してみると、よりこの絵の大切さがわかるのではないでしょうか。

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