全て無断転載は禁じます。
近代日本を代表する画家の1人であり、エコール・ド・パリを代表する画家でもある藤田嗣治 (レオナール・フジタ、1886-1968)。彼は自画像や戦争画も描いていますが、藤田嗣治といえば「乳白色の裸婦」が代名詞です。その裸婦たちは陶器のようなつるつるとした美しい肌をしています。藤田はこの乳白色の下地を用いて裸婦を描くというスタイルを確立したことで画家として成功を収めました。
今回はこの乳白色の裸婦に注目して、藤田嗣治の絵画を紹介していきます。
目次
藤田嗣治の代表作、乳白色の裸婦とは
美術史における裸婦
藤田嗣治の裸婦像を紹介する前に、裸婦の美術史における変遷について解説していきます。
美術の歴史において、人間を描くことは最も重要なテーマです。特に衣服を身に着けていない「ヌード」というのは重要なテーマでした。美術館に行けば、たくさんのヌードが描かれた絵画がありますよね。
ヌード、裸婦の起源をさかのぼると、先史時代にまで及びます。そこでは小さなヴィーナス像が作られていました。その像は腹部が膨らんだ女性の像が多く、日本の縄文時代の土偶もその一種といえます。
次にヴィーナス像がたくさん作られるのは古代ローマ。有名な《ミロのヴィーナス》もこの頃に作られました。
その後、中世になると裸婦像はあまり見られなくなります。それはキリスト教美術の時代になったからです。キリスト教では肌を露出することは良くないこととされています。
しかしルネサンス期になると、再び裸婦像が描かれるように。その代表作とされるのがボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》。ルネサンスは古代ローマ、ギリシャ時代の美術に立ち返ろうとする動きで、そのためギリシャ神話や聖書からとった裸婦像が描かれました。ここでのポイントは、「普通」の女性の裸婦ではないということです。あくまで神、人間とは違うのだという面目のもと、裸婦が描かれていました。
そして近代はマネの《オランピア》という作品で幕を開けます。《オランピア》裸の女性が横たわる作品で、そこで描かれた女性は神話や聖書の中に登場する人物ではなく、普通の人間の女性でした。そのためマネは批判にさらされ、一大スキャンダルになりますが、今やオルセー美術館の看板作品。マネはそれまでの常識を覆しました。そのマネがいたパリで、藤田は新たな裸婦像を描くことになるのです。藤田はルーヴル美術館で、さまざまな裸婦像を見て研究したといわれており、藤田の裸婦像には、そのような先人が作ってきた裸婦像の系譜が影響しているといえます。
藤田嗣治の裸婦の特徴
藤田の裸婦の特徴は、肌と線です。藤田はこんな言葉を残しています。
ある日ふと考えた。裸体画は日本に極めて少なく、春信・歌麿などの画に現わる、僅かに脚部の一部分とか膝の辺りの小部分をのぞかせて、飽までも膚の実感を画いているのだという点に思い当たり、始めて肌というもっとも美しきマチエールを表現してみんと決意して、裸体に再び八年後画筆を下したのであった。
「画の離業」『腕一本』
藤田は裸婦像でも、人体の骨格や筋肉を忠実に描くというよりは肌の質感を描くことに焦点を当てたのです。その質感を描くために、カンバスも一体化させて、乳白色の下地の技法を編み出し、つるつるの画面を作りました。
つづいて、線について解説していきます。藤田の描く線は細く、滑らかです。その線はその乳白色の下地があってこそ成しえたものでした。その細い線を長く引くためにはつるつるとした下地が必要不可欠だったからです。藤田の乳白色の下地は肌を描くものでもあり、線を引くためのものでもあったということです。
線は藤田の絵画の魅力のひとつであり、そのルーツには日本美術の線や、ボッティチェリの輪郭線をはっきりと描く線、先史時代の洞窟壁画の線など、さまざまな美術の影響があるのです。
藤田の裸婦の代表作
つづいて、藤田の裸婦の代表作を3つ紹介します。どれも1920年代、藤田の裸婦像の絶頂期ともいえる時期に描かれたものです。
《横たわる裸婦と猫》
1921年 72×115㎝ プティ・パレ美術館、ジュネーヴ
藤田の作品の中で、現存する最も古い裸婦が描かれた絵画。
黒をバックとした背景と、横たわっている女性の白い肌がコントラストが印象的なこの絵は、エドワール・マネが1867年に描いた衝撃作《オランピア》を彷彿とさせ、サロン・ドートンヌに出品した際には「藤田のオランピア」とも称されました。
アフロのような髪型で、すっきりとした目元でこちらを見つめる女性のモデルは「モンパルナスのキキ」。
透き通るように白く、ほのかに赤みを帯びている腕や膝に血色感を感じる女性の肌に「乳白色の下地」をはっきりと見て取れます。
キキの足元にはハチワレ柄の黒と白のツートーンカラーの猫がちょこんと座っており、背景の黒とキキの白い肌とのコントラストと対応しているようです。
この作品にはすぐに買い手が付き、翌年からサロンに出品した裸婦像を描いた絵画は大きな評判となり、裸婦の画家として藤田がスタートを切った作品ともいえます。
《タピスリーの裸婦》
1923年 130×96㎝ 京都国立近代美術館
花柄の背景にベッドに腰掛ける少女にも見える女性が美しい作品。女性は少し微笑んでいるようにも見え、乳白色の肌と相まって、可憐さが際立っています。ちょこんと座っているキジトラの猫は当時の藤田の飼い猫。この猫もポイントですね。
花柄の背景はタピスリーです。このタピスリーに描かれた繊細な草花はフランス更紗に典型的な柄で、ここに藤田の描写力が発揮されています。
裸婦像の最初期は背景を黒く塗りつぶしていましたが、1923年前後からは繊細なモチーフが描かれた布を背景として用いるようになります。その布は藤田が実際に買い集めたアンティークの布だったそうです。
この裸婦と繊細な布の描写は視覚だけでなく、触覚も刺激され、新たな藤田の裸婦像の魅力を引き出しました。
《5人の裸婦》
1923年 169×200㎝ 東京国立近代美術館
どこかピカソの《アヴィニョンの娘たち》を思わせる5人の裸婦が描かれた作品。
天蓋付きのベッドをバックに描かれた女性たちはそれぞれ違うポーズをとっています。2人の金髪の女性が膝をついていて、髪色が暗めの女性が3人立っています。女性たちの白い肌が浮かび上がるようで、幻想的な夢の中のような世界観を感じる作品です。
ベッドの布と裸婦の足元の布は更紗布。ベッドにいるキジトラの猫と画面の右下にいる白い犬は当時藤田が飼っていた犬と猫でした。
この作品は藤田が裸婦を多く描いた1923年の中でも優れた作品のひとつで、サロン・ドートンヌ出品作でした。
なぜ藤田嗣治はあの乳白色を生み出せたのか
つづいて、藤田がどのようにして乳白色の下地を描いていたかを解説していきます。
藤田の乳白色の技法はこれまで秘密とされてきました。藤田がアトリエに一人こもって制作をしていたことも関係しているでしょう。しかし最近の研究でその秘密が明かされつつあります。
藤田は日本の墨と筆を用いてその輪郭線を描きました。
その線を引くために必要だった下地には「タルク」という物質が使用されていたことがわかっています。
タルクは「滑石粉」ともよばれ、滑らかな白、灰白色の粉です。タルクは白色顔料として絵具メーカーで用いられるだけでなく、塗料や化粧品などでも使用されていて、日本では特にベビーパウダーの主な成分として知られてます。
このタルクを使って藤田の作品を再現すると、藤田の絵画の特徴でもある光沢のある乳白色と、すべすべとした質感が得られることがわかりました。また写真家の土門拳が藤田の制作をしている現場を撮影した写真の中には、ベビーパウダーの缶が映り込んでおり、藤田がタルクを使用していたことを証明しています。
どのようにしてタルク、という物質を使用することを思いついたのかは定かではありませんが、藤田はこの物質を使って乳白色の下地を生み出したのです。
まとめ
藤田の代名詞である「乳白色の裸婦」。それは彼が画家として成功を収めたきっかけでもありました。
藤田の裸婦はさまざま時代や国の美術に裏打ちされたものでもあり、彼自身の研究や模索があってこそ成しえたものでした。その影響は日本の現代のアートシーンを席巻する画家たちにも現れているほどです。
2018年は藤田の没後50年で、東京都美術館で大規模な回顧展も開催されました。また、オダギリジョー主演の「FUJITA」という映画も2015年に公開されていて、その映画を見れば藤田の人生がより詳しく分かります。
展覧会は終わってしまいましたが、藤田の作品は日本の美術館にも多く所蔵されているので、機会があればぜひ藤田の乳白色の裸婦を鑑賞してみてください。