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エドガー・ドガ(Edgar Degas)は美術史では印象派の画家として認識されていますが、ドガは「現代生活の古典画家」と自称。
その言葉の通り、初期から中期までの作品には古典主義的な特徴が色濃く現れています。
それにもかかわらず、ドガが印象派の画家と呼ばれるのはなぜなのでしょうか。
一生独身で絵に打ち込んだ孤高な画家ドガ。その生涯と作品を紹介します。
目次
フランスで生まれたドガの生い立ち
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/study-for-the-self-portrait-1855
印象派のエドガー・ドガ(Edgar Degas)は1834年フランスのパリで裕福な家庭に生まれ。
父は銀行員。子供の頃から自分の部屋をアトリエにしていたほど絵画に関心を抱いていました。
この頃のドガの興味は歴史画でした。
高校卒業後、父親の希望でパリ大学の法学部に入学しますが、絵画への情熱を捨てることができず法学部を中退。
そして印象派の中ではめずらしく学校で美術を勉強するために、国立美術学校に入学します。
の頃出会ったのが画家のドミニク・アングルでした。アングルはドガに次のような助言をします。
線を描くんだ。静物からでも、記憶からでもいい、とにかくできるだけ多くの線を描くんだ。
ードミニク・アングル
ドガは生涯この助言に忠実に従い、デッサンに重きを置いた作品を多数制作しています。
特に踊り子をテーマにした作品では踊り子たちの一瞬の動きを的確に捉え、それを絵に落とし込んだことが高く評価されています。
印象派の画家たちとの出会い
コンコルド広場(ルピック伯爵とその娘たち)/引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/place-de-la-concorde-1875
1865年、ドガは初めてサロンに作品を出品。その後も5年間連続でサロンに出品しますが、やがてサロンの有り方に失望し始めたドガは、当時新しいスタイルとして盛り上がりを見せ始めていた印象派に近づいて行きます。
ドガの絵画を見ると、印象派独特の外光技法も使っていないし、使っている色彩も暗く、筆運びも古典的です。
こうした技法的な面を見る限り、ドガは印象派の画家だとは言い難いのです。
実際ドガ自身も自分のことを「現代生活の古典画家」と呼んでいました。
ただ、全部で8回開かれた印象派展に7回出品していること、そして印象派に共通の日本の浮世絵の影響を受けていることなどから、美術史では印象派の画家として認識されています。
特に、ドガは日本の版画のコレクターであり、浮世絵に見られる黒の使用や俯瞰的な構図、また唐突な切断などの技法を巧みに取り入れています。
そうした影響が顕著にみられるの作品が「コンコルド広場(ルピック伯爵とその娘たち)」です。
ところが、この印象派との付き合いは長くは続きませんでした。それは技法の違いだけでなく、ドガの気難しい性格のせいもあったと言われています。
ドガは最終的に印象派から離れ、当時の社会の様子を表す風景、特にバレエの踊り子や舞台裏などの風景を数多く描きました。
またドガは生涯独身で絵を描き続けた孤高な画家でもありました。
作品で使われているモチーフと作風
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/dance-class-at-the-opera-1872
ドガが印象派展覧会に出品していたのがバレエの踊り子や舞台裏の風景を絵がいた作品でした。
ではなぜドガはそれほどまでに多くのバレエの絵を描いたのでしょうか。
ドガはオペラが好きで良く劇場に見に行きましたが、その時にバレエの上演も見ました。
当時バレエというのはオペラの余興または付属的な見世物として上演されていたレベルの低いものとみられていたようです。
そんなバレエで踊るバレリーナたちは低いレベルの人間とみなされ、パトロンの愛人になることも珍しくありませんでした。
ドガはこのような社会問題を重視し、それを絵に描くことによって社会に訴えようとしたのです。
ですから、ステージで華やかに演技している踊り子の姿だけでなく、舞台裏にいるバレリーナや稽古場で練習する踊り子たちの様子も絵にしました。
1880年代には視力が衰えてきたために、絵画から離れ彫刻を手掛けるように。数少ないですが、バレリーナや馬の彫刻作品を残しています。
また晩年には、バレエの絵画を描き続ける一方で、悩める女性や入浴する女性の様子を描いた作品を数多く制作するようになりました。
また馬や競馬の様子を描いた絵も残しています。
このようにドガは動きを持つ人物や生き物の様子を鋭い描写で描くことのできた画家だったということができます。
ドガの代表作-古典主義から印象派まで
生涯絵画を描き続けたドガの代表作を年代順に紹介します。
ドガが扱ったモチーフが時代毎に代わって行くのが良く分かると思います。
ベッレリー家(The Bellelli Family)
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/the-belleli-family-1862
1856年、ドガはイタリアに出かけそこで暮らしていたおば〈父の妹〉の家に3年間滞在します。
帰国後の1860年に制作したのがこの「ベッレリー家」。おば、その夫と娘たちを描いています。縦200cm、横250cmの大作。
ドガはこのイタリア滞在中に多くの芸術作品に触れ感銘を受けますが、この時の経験によって、画家とは常に前代の画家たちの画風を模作する「模作者」であるという考えを強く持つようになります。
この作品にもイタリア画壇の影響が色濃く出ています。パリのオルセー美術館所蔵。
中世の戦争風景(Scene of War in the Middle Ages)
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/scene-of-war-in-the-middle-ages-1865
ドガが1865年に開かれたサロンに出品した歴史画の作品。
ドガとして初めての展覧会への出品作です。
歴史画と言いながら歴史的な意味がないと評されたもの。
実際、どこの戦いを描いたものかも定かでなければ、裸の女性が7人いることも不自然であるため、これはドガが創作した逸話に基づくものと考えられています。パリのオルセー美術館所蔵。
ロンシャン競馬場(Race Horses at Longchamp)
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/race-horses-at-longchamp-1874
1871~1874年にかけてパリ近郊のロンシャンにある競馬場の様子を描いた作品。
競馬はイギリスから入って来た競技ですが、裕福な家庭で育ったドガは、競馬の観戦にも好んで出かけていたようです。
レースコースの脇でレースを終え少しほっとしたような馬と騎手の様子が見事に表現されています。アメリカのボストン美術館所蔵。
エトワール/プリマ・バレリーナ (Prima Ballerina)
引用元:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edgar_Germain_Hilaire_Degas_018.jpg
バレリーナやバレエの舞台裏の風景を描いた数多い作品の中でも、最もよく知られているのが1876年制作のパステル画「エトワール/プリマ・バレリーナ」です。
エトワールとは主役の女性バレリーナのことですが、スペイン出身のバレリーナ「ロシタ・マウリ」をモデルにしたものと言われています。
両手を広げて踊る美しいバレリーナの姿を中心に描いていますが、その背後にパトロンのような黒いスーツを着た男性の姿が見えます。
当時のバレリーナの社会的地位の低さを表現したものと捉えられています。
技法的には、スポットライトという人工の光を受けた美しい踊り子の表情や衣装の表現には、印象派の外光技法にも通じるものがあると言えるでしょう。
オルセー美術館所蔵
14歳の小さな踊り子(Little Dancer, Fourteen Years Old)
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/study-for-the-self-portrait-1855
1880年代になると加齢のため視力が衰え、ドガは絵画から彫刻に重点を置くようになります。
ただ、彫刻作品はそれほど多くなく、バレエの踊り子と馬の作品が数点残っているだけです。
この「14歳の小さな踊り子」は、布でできた服を着ていることで当時関係者からは批判されたのですが、その一方でそれまでの彫刻の概念を打ち破るものとして、当時の芸術界に新風を吹き込みました。1881年制作。
座って入浴する女(Seated Bather)
引用元:https://www.wikiart.org/en/edgar-degas/seated-bather-1899
1899年にドガが制作した「座って入浴する女」は、ドガが晩年の1885年から1906年に掛けて制作した数多い入浴する女性の姿を描いた作品の一つ。
この絵に限らず、ドガのほとんどすべての入浴する女性の作品は、明らかに、それまでの競馬やバレエの絵とは技法的に異なっていることがわかります。
筆運びは軽やかで、背景はシンプル、そして色彩には明るいものが使われています。
ここにきてドガは、意識的にか無意識的にか、印象派の技法を自身の絵画に取り入れているのです。
日本でドガの絵画が鑑賞できる美術館
ひろしま美術館 |
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馬上の散策 |
浴槽の女 |
赤い服の踊り子 |
公式サイト:https://www.hiroshima-museum.jp/ |
北九州市立美術館 |
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マネとマネ夫人像 |
公式サイト:http://www.kmma.jp/ |
アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館) |
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レオポール・ルヴェールの肖像 |
浴後 |
公式サイト:https://www.artizon.museum/ |
ポーラ美術館 |
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踊りの稽古場にて |
休息する二人の踊り子 |
二人の踊り子 |
ルアール夫妻の肖像 |
公式サイト:https://www.polamuseum.or.jp/ |
国立西洋美術館 |
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背中を拭く女 |
公式サイト:https://www.nmwa.go.jp/jp/index.html |
大原美術館 |
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赤い衣装をつけた三人の踊り子 |
公式サイト:https://www.ohara.or.jp/ |
まとめ
裕福な家庭に生まれ美術学校を卒業するなど、生い立ちから他の印象派の画家とは一線を画していたエドガー・ドガ。
自称「古典画家」というように、中期までは古典主義的な画風を顕示していました。
ただドガは、それまでの社会体制、特に当時の画壇を仕切っていた「サロン」に対して相容れないものを感じ、それによって印象派に近づいて行きました。
その頃の作品にもまだ古典主義的な要素が色濃く見られますが、浮世絵の特徴を取り入れるなど印象派の影響を受けている側面も見受けられます。
そして、晩年に描いた数多くの裸婦の絵では、色彩や筆運びなど明らかに印象派らしい特徴を見ることができます。
また、競馬やバレエなど、他の印象派の画家が扱わなかった動きのあるモチーフを取り入れたとこなど、後世の美術界にも大きな功績を残したと言えるでしょう。