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オーストリアの有名画家の美術絵画を解説

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クリムトと印象派、そしてウィーン分離派
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クリムトはオーストリア、ウィーンを代表する19世紀の画家であり、その耽美で美しい女性像と、「黄金様式」と呼ばれる金のきらめくデザインチックな画面装飾で、現代の日本でも非常に人気のある美術家です。

クリムトが活躍した当時の19世紀は、フランス印象派の運動が目覚ましい時代。クリムトは印象派の影響を受けながら、ウィーンの凝り固まった保守主義を打開するウィーン分離派の運動を創立しました。

そうしてクリムトが起こしたオーストリアの美術改革は彼の弟子であるエゴン・シーレにも受け継がれます。このクリムトと印象派の関係、そして「ウィーン分離派」について解説しましょう。

クリムトと印象派の関係

グスタフ・クリムトの顔
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)は1862年にウィーン郊外のバウムガルテンに金細工師の息子として生まれ、14歳の時に博物館付属工芸高校に入学し、古典技法を学びました。クリムトは元々、芸術家として身を立てていたというよりは、職人の工芸的な美術家として、1879年、17歳の時に美術やデザインを請け負う仕事を始めたのがデビューとされています。

そうして、クリムトは2人の兄弟と建築装飾を専門とした事業「クンストラーカンパニー(Künstlercompagnie)」を設立。グスタフ・クリムトは装飾画、弟のエルンストが彫刻、ゲオルグが彫金をそれぞれ学校で学んだ兄弟3人で始めた仕事は成功し、すぐに起動に乗ります。

当時、クリムトが影響を受けた人物に「画家の王」と呼ばれたウィーンの画家ハンス・マカルトがおり、クリムトも彼に習って伝統技法を駆使して装飾画を描いていました。

装飾家としてのキャリアを積み、1888年には皇帝に勲章を授与されるほどにクリムトの装飾画は人気を博しました。2人の弟と立ち上げた建築装飾の仕事も波に乗って、さらに1891年には「クンストラーハウス(オーストリア造形芸術家協会)」の会員として認められます。
クンストラーハウス(オーストリア造形芸術家協会)
クンストラーハウスは、オーストリアの保守主義芸術の礎。クリムトは伝統技法を学び、敬愛する保守派の巨匠ハンス・マカルトに「後継者」と言わしめた人物ですが、その実フランス印象派に大きな影響を受けた画家でもありました。

印象派、または印象主義は、1860年代にパリの芸術家グループの立ち上げた、保守的な美術界に対する前衛的な表現を実現した、当時の新しい芸術運動です。クリムトは愛人とのバカンス中に風景画を数多く手がけていますが、それらの風景画は明らかに印象派にならったもの。
印象派を受けたクリムトの絵画
クリムトの風景画からはそれぞれモネ、スーラ、ゴッホ、マネなどの印象派の奇跡が見て取れます。その、保守主義、伝統主義に反した新たな芸術運動である印象派は、のちにクリムトが立ち上げるウィーン分離派の運動が習うものです。

クリムトの風景画は、「黄金様式」といわれる金箔をあしらった絵画のように絢爛豪華なものではありませんが、草花の色彩の目に生える鮮やかな描写が非常に華やか。しかし、その草花や自然の風景の生命に溢れた描写と同時に、どこか不穏な「死」の影がつきまといます。

また、クリムトは女遊びの派手な人物で、エロティシズムを絵画の題材としていることでも有名。しかし、クリムトの描く女性像の中で、ひときわ異質な作品が残されています。それは『へレーネ・クリムトの肖像』といわれる、自身の姪の横顔を描いた肖像画。
へレーネ・クリムトの肖像
その少女へレーネはクリムトの弟、エルンストの娘で、描かれた当時は6歳でした。1898年に描かれたその肖像画は、数々の女性ヌード絵画を手がけたクリムトの作品としては非常に禁欲的な図像で、左を向いて、凛と背筋を伸ばして佇むへレーネはどこか寂しげな表情をしています。絵画において、肖像画の顔が「左を向く」というのは「死」を示すことですが、この場合へレーネは自身の死ではなく、自身の父親の死を見つめていると解釈されます。

絵筆は時に感情的に素早くキャンバスを走り、しかし艶やかな髪の部分は彼女の頭を優しく撫でるかのような繊細なタッチで描かれ、クリムトのへレーネに対する純真な愛情を思わせるよう。この肖像画は伝統技法ではなく、印象派をはじめとした、同時代の外国画家の影響も感じ取れる作品です。

クリムトの絵画に描かれるほかの女性は、ほとんどがクリムトの愛人であり、多くがヌードモデルとしてクリムトの絵のモデルを務めました。中でも特に愛されたのがエミーリエ・フレーゲという女性で、彼女は度々クリムトを避暑地のアッター湖に連れ出します。クリムトの描く風景画の多くはそのアッター湖のもの。
クリムトが描いたアッター湖の絵画
エミーリエはファッションデザイナーでもあり、クリムトの愛人であるほか、友人であり、良き理解者でもありました。クリムトの描く女性像には注文を受けて上流階級の肖像画を描くほか、自発的に描いたものと分かれ、エミーリエの肖像はその自発的に描いた肖像を代表する作品です。
エミーリエの肖像
クリムトの絵には、印象派の筆使いと、工芸的な装飾の織りなす絵画には誰もが夢中になるようなきらびやかな美しさが見て取れます。そのように、クリムトは印象派をはじめとした外国の美術の新しい流れに触れ、試行錯誤を繰り返しながら自身の新しいスタイルを研究していました。そうして、自身も「ウィーン分離派」という、オーストリアの保守派に対抗する芸術運動を立ち上げます。

ウィーン分離派について

ウィーン分離派
クリムトは、装飾家として弟たちとビジネスで成功を収めますが、その光に満ちた人生は1890年代から陰りを帯びます。

1892年に父と、クンストラーカンパニーを共に経営していた弟エルンストを立て続けに無くし、それをきっかけとして装飾のカンパニーは解散。そして、1894年にはウィーン大学の大講堂の天井画の制作を依頼されましたが、この仕事が「ポルノ的だ」と大炎上を招き、ゆくゆくは依頼料を返還するほどの精神的ダメージを受けました。

その失意の中、クリムトはオーストリアの伝統に固執した美術界への疑問をより膨らませます。そして1897年、クリムトは意を同じくする芸術家たちと「ウィーン分離派」という芸術運動を創設します。ウィーン分離派は「あらゆる芸術は自由である」というモットーを掲げ、ウィーンの凝り固まった保守、伝統主義を改革するものでした。

「分離派/ゼセッション」とは、保守的な美術界に反旗を翻し、分離した集団のこと。分離派の運動は大きく3つあり、始めがドイツのミュンヘン分離派、2つ目がウィーン分離派、3つ目がベルリン分離派と呼ばれます。

ウィーン分離派の運動の起こりは、フランスのパリで起こった印象派の運動の影響を感じられます。印象派も、フランスの凝り固まった保守的で停滞していた美術の世界に革命をもたらしたものでした。印象派というヨーロッパでいち早く起きたその美術界の改革は、クリムトの作品にも大きな影響を及ぼしたのです。

つまりは、「ウィーン分離派」とは、ウィーンで起こった印象派の運動のようなもの。ただ、その様式に工芸的な要素があるということが、ドイツ語圏の分離派運動とフランス印象派の様式との大きな違いです。クリムトをはじめとして、彼の弟子であるエゴン・シーレの絵も、どこか工芸、デザイン、もしくはイラスト的であることがわかるでしょう。

オーストリアは伝統と手工芸の国であり、またクリムトはウィーン分離派の創設者ですが、もともと金細工師の父を持ち、弟たちと装飾家という仕事を請け負っていたこともあり、その絵画も随所に工芸的な装飾が見られます。ウィーン分離派は主にデザインの方面に大きな影響を残した運動といえます。

1901年、クリムトは印象派の影響を受けつつ、自身の創作の模索における1つの到達点として、『ユディトI』を製作します。それは、旧約聖書の題材という古典美術的な内容を持ちながら、画面に金箔の装飾を施し描くという、ファイン・アートと工芸の融合といえる作品です。
ユディトI
これが、クリムトの「黄金様式」のはじまり。『ユディトI』から見られる、印象派の影響を引き続き思わせる女性像の描写と、平坦で装飾的な描写は、現代のイラストファンにも人気を受け継ぐ、クリムトの絵画の特徴となります。額装の装飾も非常に凝った作りであり、彫金師の弟ゲオルグの協力もありました。

ウィーン分離派の創設メンバーは、のちに名誉会長となる理事長のグスタフ・クリムトと風景、建築画家のルドルフ・フォン・アルトの2人をはじめ、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマンら建築家をはじめとした多数のオーストリアの芸術家を擁し、のちにエゴン・シーレとオスカー・ココシュカも参加しました。

シーレはクリムトの弟子としてクリムトの元で絵画を学んだ人物です。シーレのエロティシズムの表現や初期の印象派の影響を受けた絵画や素描など、クリムトと似た表現が見られるのも、弟子である故でもあるでしょう。

これらウィーン分離派は、クンストラーハウスにて活動していた経歴を持ち、その芸術家協会を脱退したアーティストで構成されています。ウィーン分離派の主な目的として、印象派のようにオーストリアのナショナリズム、伝統主義芸術への反発と前衛的な表現への進展を目指し、そしてウィーン市内に当時の現代美術専門のギャラリースペースを展開することでした。

また、モダンデザインに大きな影響を与えたウィーン分離派は、アール・ヌーヴォー様式の確立に大きな影響を与えます。ウィーン分離派は「ヴェール・サクルム(Ver Sacrum)」という公式の雑誌を発行し、表紙にはアール・ヌーヴォー様式のイラストがデザインされています。

ウィーン分離派の展示として有名なのが1902年の第14回ウィーン分離派展示会で、同じオーストラリア出身のベートーベンをテーマとしてあげたもの。クリムトは『ベートーベン・フリーズ』という、右方向に向かって連続する寓話のような表現の壁画を製作しました。翌年の第18回の展示会では、クリムトの回顧展が行われています。
ベートーベン・フリーズ
同1903年、分離派のメンバーであるコロマン・モーザーとヨーゼフ・ホフマンが設立した「ウィーン工房」にクリムトは興味を持ちます。ウィーン工房は実用芸術、つまりデザインや工芸の美術的価値の推進を図りましたが、ウィーン分離派からは批判を浴びることに。それをきっかけとして、1905年にクリムトは何人かのメンバーと共にウィーン分離派を脱退しました。

それから、クリムト1906年にオーストリア芸術家連盟を結成。クリムトは上流階級の女性の肖像画などを描いたり、ウィーン工房の手がけた建築に壁画を制作するなど共同製作をします。そして、1910年から晩年の1918年まで、「黄金様式」に見られる金箔を施した装飾的な絵画より、油彩のみの印象派から表現主義にまたがるような作品を手がけました。

ヨーロッパのモダンデザインに影響を与えたウィーン分離派の運動は、今なおアール・ヌーヴォーというかたちで多くのファンを持ちます。クリムトの去った後もウィーン分離派の活動は続きましたが、美術史にはクリムトが在籍していた1905年までがその主な活動期間として残っています。

まとめ

美術家であり、また工芸家としてのオリジンを持つクリムトは、「花」と「女」をモチーフとした装飾的な絵画をもってウィーンから表彰されるアーティストとなり、自身の兄弟と設立した「クンストラーカンパニー」また「ウィーン分離派」そして「オーストリア芸術家連盟」を設立するリーダーでもありました。

弟子であるエゴン・シーレに対する金銭的援助やパトロンの紹介なども含め考慮すれば、クリムトは才能溢れる美術家であると共に、非常に頼り甲斐のある人物であったことが伺えます。

オーストリアの、工芸と美術の織りなすヨーロッパでも独自のアートシーンの発展を支えたクリムトは、その作品も今なお、老若男女問わず愛されています。今後もクリムトの展覧会が開催されたら、ぜひ足を運びたいものです。

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