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フランスの有名な人気画家の絵画を紹介

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パリ、印象派の中心人物クロード・モネとその作品
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日本で最も人気の印象派の画家といえば、ルノワールに続いて睡蓮の絵で知られるクロード・モネではないでしょうか。インテリア絵画ポスターやカレンダーなど、家庭の中で見たことがある人も多いかと思われます。

モネの絵画の淡い色彩に夢中になる人も続出のなか、2020年後半には東京・京橋のアーティゾン美術館で「クロード・モネ – 風景への問いかけ」展が開催されます。古い絵が苦手な人も、モネの絵は現代の若い人にも愛好家はたくさんおり、人気の展覧会になることが予想されるでしょう。

ルノワールやゴッホ、カイユボットなど、時代を中心にいた画家たちの交友を結び、印象派を切り開いた画家モネについてわかりやすく解説し、その生涯と作品いついて詳しく追っていきましょう。

印象派の巨匠、クロード・モネとは

クロード・モネの写真
クロード・モネ(Claude Monet)は1840年にフランスのパリで、中産階級の家庭に生まれました。しかしモネは都会の中で育ったのではなく、5歳の頃にノルマンディー地方のル・アーヴルの町に移ったことが、「自然児」といわれたモネの由来であるともいわれています。セーヌ川沿いの風景はモネの記憶に深く残りました。

ル・アーヴルの町には、その時代まで室内に置いていたキャンバスを屋外の日光の下に持ち出し、自然を見たまま描く新しい絵画の道を開拓しようとした「外光派」、つまりは印象派の前身にあたる様式の画家であるウジェーヌ・ブーダンが住んでいました。1858年ごろ、当時すでに絵画の才能を示していた10代のモネはブーダンと出会います。

ブーダンはモネを芸術の世界に誘い、モネは画家としての第一歩を踏み出します。ル・アーヴル市展覧会にモネとブーダンは一緒に風景画を出展し、新表現主義などの伝統的な古い絵画よりも、自由で新しい絵画を求めていくことに。

モネは1859年、19歳の頃、少年の頃から戯画を売って貯めていた2000フランでパリへ上京し、まずはブーダンの師であるコンスタン・トロワイヨンの元を訪れました。トロワイヨンはアカデミックな美術教育を勧めましたが、生粋の反逆児であったモネはそれに反対し、教育者の出入りがなく自由な制作ができるアカデミー・シュイスに入学します。アカデミー・シュイスではポール・セザンヌ、カミーユ・ピサロなど、モネを含めて多くの印象派画家が育った場所であり、モネはピサロやセザンヌと交友を結びました。

1862年、アルジェリアの徴兵から戻ったのち、アカデミックな正規の美術教育を受けないモネは実家から家族から不信感を持たれます。そこで、モネはアカデミックな絵画に反感を覚えつつも、家族を失望させないためにも、パリのシャルル・グレールのアトリエに入ります。

グレールはアカデミズムを重んじる新古典主義の画家でしたが、グレールのアトリエは比較的自由で費用が安かったこともあり、伝統絵画に反感を持つ学徒たちにも人気がありました。モネはグレールのアトリエでピエール=オーギュスト・ルノワールやアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールらと出会います。そしてモネはアカデミー・シュイスとグレールのアトリエにいた画家たちを結びつけ、印象派をまとめる役割を担っていきます。

モネはグレールのアトリエを離れた後、屋外の光の元で絵画を制作することをルノワール、シスレー、バジールに教えるべく、郊外のフォンテーヌブローの森を訪れ、他のバルビゾン派(自然風景や農民の暮らしを描いた)の画家たちと交流し、助言を受けながら制作を続けました。

サロンへの挑戦、そして「印象派展」へ

1865年、モネはフランスのアートシーンの中心であったサロン・ド・パリに挑戦し、《オンフルールのセーヌ河口》と《干潮のエーヴ岬》の風景画が入選します。そして1866年の《カミーユ(緑の衣装)》と《シャイイの道》も入選。モネは画壇において順調に評価されつつありました。サロンは審査員がおり入選すると報酬もでる上、画家の評価を決める場であり、サロン入選は画家たちにとっての重要な通過点でした。

しかし、1867年のサロンでモネの《庭の中の女たち》は落選。裕福な家庭に生まれたバジールが購入したためモネは経済的な心配をせずにすみましたが、サロン落選はモネにショックを与えました。その後、1868年のサロンで一点のみ入選するも、1870年まで連続して落選をするという憂き目にあいます。バジールはモネをよく支えましたが、普仏戦争で命を落としました。
庭の中の女たち

モネはというと、普仏戦争の際には兵役を免れるためにオランダ経由でロンドンへ渡り、イギリス風景画を学んでいました。ターナーなどの風景画家の影響は、印象派絵画の発展に大きな影響を与えたといわれています。また画家のシャルル=フランソワ・ドービニー、そしてのちに印象派の絵画の普及に力を尽くした画商のポール・デュラン=リュエルと出会うなど、印象派の土台は着々と築かれていきます。

1871年、モネはパリに戻り、エドゥアール・マネの援助のもとアトリエを構えます。ブーダンやルノワールやシスレーなど、グレールのアトリエで出会った学友たちとも交友を続けつつ、デュラン=リュエルがモネを始めとしたのちの印象派の画家たちの作品を購入したため、経済的には安定していました。

モネはボートを買い、アトリエのあるセーヌ川沿いに浮かべてたびたび絵画を手がけました。しかしサロンに落選し続けたモネは以降、第三共和制になりより保守的になっていったサロンには出展せず、ピサロやドガ、ルノワールらとともに、伝統に縛られない独自の展覧会を画策します。

そうして、1874年4月15日、パリのキャピュシーヌ大通りの写真館の2回で開かれたのが「第一回印象派展」です。この展覧会にはモネ、ブーダン、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ら印象派の画家30名余りが参加し、160点もの作品が出展されました。

ただ、はじめは「印象派」展(英語ではExpressionism)という名前で開催されたのではなく、「印象派」というのもモネが出展した「印象・日の出」の絵画に対する悪評と揶揄からついた名前でした。第一回印象派展は特に批評家ルイ・ルロワにより酷評されましたが、かえって世に「印象派」という存在を知らしめたにすぎません。

印象派展は嘲笑を受けながらも、徐々に実業家や絵画収集家の愛好を受けて普及していきます。1876年の第二回印象派展ではモネは日本の着物を妻のカミーユに着せて描いた《ラ・ジャポネーズ》などを出展します。

ラ・ジャポネーズ

1880年代は生涯の家となるセーヌ川沿いのシヴェルニーに居を据え、86年にデュラン=リュエルがニューヨークで印象派の展覧会を開いた頃から印象派の評価とモネの経済的環境は安定し、90年代にはシヴェルニーで《積みわら》のシリーズを手がけます。その頃、日本美術愛好家のグループに加わったとされます。

そして、モネの絵画を代表する《睡蓮》の連作を手がけたのは1898年の頃です。

睡蓮の庭

モネの「睡蓮」1916年
モネは1890年から、シヴェルニーの自宅に睡蓮の庭と日本風の太鼓橋を整えるなど、日本の風合いを取り入れた環境を作り、98年から睡蓮の連作を手がけていきます。

1900年代に入り、睡蓮の池の拡張工事を行い睡蓮の連作を開始するなど、自宅の庭の睡蓮の風景に集中していきます。モネは出来に満足せず、30枚余りの睡蓮の作品を破棄するなど、スランプに見舞われていきますが、1909年のデュラン・リュエルの画廊で1900年代以降の睡蓮の連作を展示し、大成功を収めます。以後、晩年まで、視力低下や2番目の妻アリスや長男の死など不幸を抱えながらも睡蓮を描き続けます。

1924年に睡蓮の大装飾画を含めた回顧展を開催し、1926年の12月5日、86歳でこの世を去りました。モネの晩年にはキュビズムやフォーヴィズムの台頭など、すでに印象派の時代ではありませんでしたが、モネは生涯を通して印象派を切り開き、作品を手がけたのです。

作品解説

ここから、モネの作品について解説していきます。

モネの作品の特徴といえば、鮮やかで光に霞んでいくような淡い色彩、ゴッホらと同じく荒々しく筆の跡を残した、印象派を代表するようなタッチなどの技法と、同じ風景を違う季節の日光のもとでなんども描くなど、連作の傾向が挙げられます。

また、モネはアカデミズムに反抗し、自分と絵画の世界の中だけで画業を遂行したことでも知られています。モネの作品について、学徒時代から睡蓮の時代まで代表的な作品を見ていきましょう。

《カミーユ(緑の衣装)》

カミーユ(緑の衣装)
1866年に制作されたこの作品は、モネがサロン・ド・パリに出品し入賞した数少ない作品、また数少ないモネの人物画のひとつです。印象派の画風を探求する以前の作であり、モネはサロン向けの絵画としてわずか4日間で描き上げました。

モデルは当時の恋人でのちに妻となるカミーユ・ドンシュー。カミーユがこちら(モネ)を振り返りながら歩む一瞬を捉えた画面は、クールベの影響が濃厚であるといわれています。

現在はドイツのブレーメン美術館が所蔵しています。

《ラ・グルヌイエール》


1869年の《ラ・グルヌイエール》は、セーヌ川畔の有名な行楽地であり、モネはたびたびセーヌ川の水面に映るキラキラとした光と陰を描き出しました。現在、この作品はニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵しています。

実は、ルノワールも同様の構図で作品を手がけています。

この2つの絵は、ルノワールがはじめに川畔で制作していたところにモネが訪れた時に描かれました。グレールの指導やのちに古典主義に傾倒していくルノワールの《ラ・グルヌイエール》と異なり、モネのものはより大胆で視覚的な作品となっています。

《印象・日の出》

印象・日の出
1872年の《印象・日の出》は、印象派の美術運動を世に知らしめるきっかけとなった最も重要な作品です。印象派という名前はこの絵が由来となっており、批評家ルイ・ルロワの批判の的ともなりました。

筆跡を残さない新表現主義など保守的な絵画と異なり、荒く筆跡の残った即興的な画面は一般に未完成品だと思われるなど、酷評を受けます。

《印象・日の出》は他のモネの作品とも異なり、描かれるものの全てが具体的なシルエットを持たず、色彩の分割によって描かれた光の表現のみであることから、モネの視覚に移った「印象」のみが描き上げられています。「印象」というキーワードは前々からルノワールやシスレーなど印象派の仲間たちの間で共通していた意識であり、まさに印象派の出立にふさわしい作品だったといえるでしょう。

現在はパリのマルモッタン・モネ美術館で見ることができます。

《積みわら》

積みわら
1880年代のおわりから、モネはひとつのテーマ(モチーフ)を様々な天候や季節の陽の光の下で複数の絵を描く連作を手がけていきます。《積みわら》のシリーズは晩年まで過ごしたジヴェルニーの家の近くの丘から見える、陽光を浴びて輝く積みわらに惹かれて手がけ始めたもの。

モネはジャポニズムを愛好し、同じモチーフで連作を描くのは葛飾北斎など浮世絵から着想を得たという話もあります。

《積みわら》のシリーズはモネの印象派絵画の中でも当時から人気があった作品でもあり、モネはいくつものキャンバスを用意し、その時に見た一瞬の光を描くためにものすごい速さで筆を動かし、何枚も《積みわら》を手がけました。

現在、《積みわら》は世界各国に散らばり、シカゴ美術館やオルセー美術館をはじめ、あらゆる美術館が所蔵しています。

《睡蓮、水のエチュード、朝》


モネはジヴェルニーの家の庭に日本風の庭園を作り、池に浮かべた睡蓮を題材に連作を手がけました。

モネが描いた睡蓮のシリーズは、1909年にデュラン・リュエルの画廊に展示され大反響を呼びます。2番目の妻の死と息子の死、画家にとって致命的な失明の危機など、失意によって一時期制作を取りやめていたモネでしたが、友人のジョルジュ・クレマンソーの励ましにより、連作の《睡蓮、水のエチュード、朝》と《睡蓮、水のエチュード、雲》のそれぞれ横12メートル以上もある大作を手がけることができました。

この巨大な壁画ともいえる絵画はオランジュリー美術館に公式に寄贈するために描かれましたが、モネはオランジュリー美術館に完全にこの絵が取り付けられるのを見ずにして永眠。その最後まで、モネは許可を得てこの大作に加筆し続け、満足のいくまで制作していたといいます。

現在も、《睡蓮、水のエチュード》の二連作はパリのオランジュリー美術館に展示されています。

まとめ

多くの印象派画家の交友をつなぎ、印象派の運動を推し進めた中心人物であるクロード・モネ。アカデミックな学習よりも、ひたすらに目の前に広がる光景を描き続けることを選び、生涯を通じて印象派絵画を手がけました。

優雅でロマンチックな色彩は、世界の浴びる光を美しく描き出し、特に睡蓮のシリーズは大戦中の現実世界の醜さを感じさせない、まるで理想郷のような庭を映し出しています。

晩年、モネの印象派絵画はあまり注目されなくになっていきましたが、1950年代にはジャクソン・ポロックなど抽象表現主義の画家から再評価されます。

ひたむきに自身の絵画と向き合ったモネの姿勢はまさしく現代人が想像する芸術家そのものであり、2020年の京橋・アーティゾン美術館のモネ展は必見。混雑する時期を避けて鑑賞しにいきましょう。

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