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ピーテル・ブリューゲル について詳しく解説

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【ブリューゲル】ネーデルランドの風景と人々を見つめた絵画作品たち
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北方ルネサンスを代表する画家の一人、ピーテル・ブリューゲル 。

彼の作品は日本でも人気が高く、美術展が開催されればどの美術館も大盛況となりますが、実際のブリューゲルの生涯についてはあまり知られていません。

生前から成功を収め、後世まで愛されるブリューゲルの絵画作品と人生を、残された記録から紐解いていきます。

ブリューゲルの生涯

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/the-wedding-dance-in-the-open-air
《農民の婚礼の踊り》(1566年頃)デトロイト美術館

ルネサンス期にネーデルラントで活躍した画家、ピーテル・ブリューゲルですが、生年や出生地は未だはっきりとわかっていません。

1525〜1530年頃にブレダ近郊のブリューゲル村で生まれたと伝えられるのみで、どんな幼少期を過ごしていたのかも不明ですが、10代よりアントワープ(アントウェルペン)の画家ピーテル・クック・ファン・アールストのもとで絵画の勉強を始めたようです。

1551年にアントワープの画家組合に加入したブリューゲルは、翌年、当時の慣習に従いイタリアへの修行旅行に向かいました。

2年以上のイタリア滞在から帰国後、版画出版業者ヒエロニムス・コックのもとで、版画の下絵画家として働くことになります。

コックによって刊行されたブリューゲルの「大風景画」シリーズや、15世紀末の巨匠ヒエロニムス・ボスの作風をイメージした版画は大人気となり、成功を収めました。

1563年、結婚を機にブリューゲルはアントワープからブリュッセルへ移住し、この地で彼の主要作品となる油彩画の多くが制作されました。

「農民画家」と呼ばれる作風も、この時期に円熟期を迎えたことにより生み出されるのです。

1569年9月、若い妻と4人の子供を残し、ブリューゲルは病死しました。まだ40代前半であったと考えられます。

絵画制作の期間は10年にも満たない生涯でしたが、現在まで知られている40点ほどの油彩画は、世界中の名だたる美術館に展示され、訪れる人々を魅了し続けています。

ブリューゲルの人物像


https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/pieter-bruegel-the-elder
ブリューゲルの死後に発表された肖像版画

ブリューゲルについては、絵画作品以外で彼を知る情報がほとんどありません。

ブリューゲル自身による著作や書簡など、彼の言葉そのものは何も見つかっていないようです。

生い立ちもほとんど不明ですが、画家で伝記作家のカレル・ファン・マンデル(1548〜1606年)が残したブリューゲルの伝記により、彼の生涯をかろうじて知ることができます。

壮大なパノラマの風景画や、風刺や教訓を織り込んだ農村の世俗的絵画など、独特の表現方法は際立って素晴らしいものであると当時から評判を呼び、世間の尊敬を集めました。

著作などがなくても、絵画そのものから、教養があり知識人であったブリューゲルの人物像が見えてきます。

ブリューゲル絵画の楽しみ方を解説

素朴な画風ながら壮大なパノラマが展開するダイナミックな構図。

一言では表現できないブリューゲルの絵画は、見始めると目が離せなくなるような、興味の尽きない魅力的な作品ばかりです。

堅苦しい知識は必要ありませんが、宗教と世俗が交じり合う、独特な世界を少し解説していきます。

風景画家として人気を確立

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/country-concerns-1552
「大風景画」シリーズより《田園の憂慮》(1555-56年頃)ナショナル・ギャラリー、ワシントン

版画の下絵画家としてキャリアをスタートさせたブリューゲル。

雇い主であるヒエロニムス・コックは、様々なテーマを版画化し、世界に向けて刊行しましたが、とりわけ風景画は中心となるテーマでした。

アルプスをイメージしたパノラマ眺望を楽しめる、12点の「大風景画」シリーズは、ブリューゲルの初期の傑作とされています。

農村の日常を緻密でユーモラスに描く

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/peasant-wedding-1568
《農民の婚宴》(1568年頃)美術史美術館、ウィーン

ブリューゲルといえば、まず「農民画家」として語られることが多く、農村に生きる人々の素朴な日常を彼独特の視線で描いています。

晩年の代表作《農民の婚宴》は、農村の風俗、風習を体感できるような傑作ですが、結婚式の場面であれば、通常は中央に置かれるべき新郎新婦が、どこにいるのかすぐには見つかりません。

主役がいないというより、ここに描かれている一人一人が主役とも考えられます。納屋のような室内での祝いの席では、参列した村人たちの熱気が伝わり、談笑が聞こえてくるようです。

手前の人物を一番大きく、遠景の人物を小さく描くことにより、奥行きが深まり、質素な雰囲気ながら、ダイナミックな空間が描き出されています。

絵画に詰め込んだことわざ辞典

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/netherlandish-proverbs-1559
《ネーデルラントの諺》(1559年)国立絵画館、ベルリン

書簡などの文章を何も残さなかったとされるブリューゲルですが、絵画作品にはたくさんのメッセージを詰め込みました。

初期の代表作品《ネーデルラントの諺》は、絵の中に100前後もの諺(ことわざ)が描かれています。

ある海辺の村のひと騒動といった様子ですが、ほぼ全ての人と物に諺を演じさせています。

人間の愚行や欺瞞、罪深さなど、諺の意味はネガティブなものではありますが、庶民の日常に根付いた文化とも言える諺を、ブリューゲルは視覚的でユーモラスに表現しました。

またこの後にお話するヒエロニムス・ボスの影響を受けた「大きな魚は小さな魚を食う」という有名作品も人間社会の弱肉強食を表した作品で見所の多いものもあります。

ヒエロニムス・ボスの再来

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/the-fall-of-the-rebel-angels-1562
《反逆天使の墜落》(1562年)ベルギー王立美術館、ブリュッセル

15世紀末のネーデルラント美術の巨匠ヒエロニムス・ボス(1450頃〜1516年)。

聖書をモチーフに、幻想的で怪奇的な世界を描き、生前から王侯貴族のファンもつくような大注目を浴びた画家でした。

ブリューゲルの生まれる10年前に亡くなっていますが、ブリューゲルが版画の下絵画家時代、ヒエロニムス・コックに依頼され制作したボス風の版画は大評判になり、「ボスの再来」と呼ばれます。

その後、油彩画でもボスを継承するような空想的な世界を描き出しました。

神に逆らい天界を追放された堕天使を描く《反逆天使の墜落》は、パトロンの注文に応じて制作された作品と推測されますが、ブリューゲルの圧倒的な空想世界は、巨匠ボスを超えたとまで称賛を受けます。

珍獣や悪魔がうごめく地上へ落ちた反逆天使は、昆虫や爬虫類との合成怪物のような姿となり、大天使ミカエルと戦います。

画面に溢れかえる怪物は、現世の人間の強欲を表現したとも考えられますが、不気味でおぞましいはずの生き物たちは、どこかユーモラスで愛嬌も感じられますね。

ブリューゲルの描く宗教の世界


https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/the-little-tower-of-babel-1563
《バベルの塔》(1568年頃) ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館、ロッテルダム

農村の日常を描き、世俗的絵画のイメージが強いブリューゲルですが、宗教の世界をモチーフとした作品も複数残しています。

ブリューゲルの《バベルの塔》は、彼の代名詞ともいえる傑作です。モチーフは旧約聖書の「創世記」に記された伝説上の巨塔。

神と等しくなりたいと、天まで届く塔を建てようとした傲慢な民衆に対し、怒った神は一つであった人類の言葉を混乱させました。

互いの言葉が通じなくなった民衆は、塔の建設を断念し、各地に散っていきました。

ブリューゲルは生涯で3点の《バベルの塔》をテーマにした作品を描いたとされますが、現存しているものは、ウィーンの美術史美術館と、ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館に所蔵されている2点となります。

先に描かれたのはウィーン版で、1563に制作されました。塔の存在感はもちろんのこと、現場で働く工夫の姿も細かく描き込まれています。

建設が進む塔の左前景に描かれた、現場の視察に訪れたニムロデ王の一行は、人間の愚かさの象徴だと捉えることもできます。

一方、ロッテルダム版の作品は最晩年の1568年頃の制作と考えられています。サイズはウィーン版の半分ほどですが、こちらのほうが威圧感と不穏さが強調されています。

前作では自然の岩山が使われていた塔が、人間の焼いた煉瓦で建設されることにより、より人間の傲慢さ、支配欲が表現され、進化した描写力で見る者を圧倒します。

華麗な一族について

ブリューゲルと妻マイケンとの間には、4人の子供が生まれました。

父ブリューゲルが他界した時、まだ幼かった息子2人は、母方の祖母に絵の手ほどきを受け、跡を継ぐように画家となり、ブリューゲル一族を築くことになります。

マイケン・クック(1545?〜1578年)

1563年、ブリューゲルは、師ピーテル・クックの娘であるマイケンと結婚しました。

ブリューゲルが1569年に亡くなったため結婚生活は短く、また、マイケンも9年後の1578年に亡くなり、2人の息子と2人の娘は、画家だった祖母(マイケンの母)に引き取られました。

ピーテル・ブリューゲル2世(1564/65〜1636年)

父と同名の長男ピーテル・ブリューゲル2世は、父の作品を数多く模写し、ブリューゲル絵画の様式を世に広めることに貢献しました。

また、オリジナルではグロテスクな人物描写の作品を残し「地獄のブリューゲル」と呼ばれました。

その息子ピーテル3世も画家となり、ピーテル2世の工房で作品のコピーなどを制作しました。

ヤン・ブリューゲル(1568〜1625年)

https://www.wikiart.org/en/jan-brueghel-the-elder/flowers-in-a-wooden-vessel-1607

ヤン・ブリューゲル《木桶の中の花束》

非常に才能に恵まれた次男のヤン・ブリューゲルは、様々な植物を繊細で鮮やかに描写し「花のブリューゲル」と呼ばれ、貴族などからも人気を集めました。

また、バロック絵画の巨匠ルーベンスとの共同作品をいくつも手がけました。

その長男ヤン・ブリューゲル2世は、父と同じようなスタイルの画家となりました。

父の死去後はその工房を引き継ぎ、異母弟のアンブロシウスとともに風景画や寓意画などmの作品を制作。

さらに、その子供も画家となり、ブリューゲル一族は五代にわたり画壇で活躍しました。

ぜひ知ってほしいブリューゲルの代表作

《子供の遊戯》(1560年)美術史美術館、ウィーン

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/children-s-games-1560
アントワープの街中を連想させる広場に、総勢約250人もの子供たちが遊んでいます。

その遊びの数は90種類以上。

ひとつの場所でこのようなことが可能かと考えると現実的ではありませんが、ルネサンス期の人文主義者たちが理想とする、遊びで成長する子供の世界をブリューゲルならではの視点で描き出しました。

《十字架を担うキリスト》(1564年)美術史美術館、ウィーン

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/christ-carrying-the-cross-1564
十字架を担ぎゴルゴタの丘を目指すキリスト。

聖書に基づき描かれることの多いモチーフですが、ブリューゲルのこの作品では、まず「キリストはどこ?」と目を凝らし探すところからはじまります。

キリストは大きく一番目立つように描かれることがあたりまえという思い込みのせいで、民衆と同じサイズで中央に埋もれているキリストを見つけ出すことに時間がかかるのかもしれません。

画面手前に大きく描かれた聖母と仲間たちの嘆く姿は、従来の宗教画を彷彿とさせますが、より一層、中景の人間模様が生々しく現実的に見えてきます。

《雪中の狩人》(1565年)美術史美術館、ウィーン

https://www.wikiart.org/en/pieter-bruegel-the-elder/hunters-in-the-snow-1565
ブリューゲルを語るうえではずせない冬景色を描いた有名作品。

厚い雲と深い雪に覆われたフランドル地方。

左手前の3人の狩人と、しょんぼりうなだれた猟犬たちが見下ろす先には、凍った池でスケートやホッケーを楽しむ村人や子供たちの姿があります。

その奥のアルプスを彷彿とさせる切り立った山岳風景まで見渡せる構図は、ブリューゲルならではの技術と描写力の結集です。

最後に

国際的商業都市として栄えた時代のアントワープに住み、人文主義者の学者や実業家との付き合いから刺激を受け成長していった教養人ブリューゲル。

「農民画家」と呼ばれるまでに農村の生活を描くことに熱心だった彼の望みは何だったのでしょうか。

都会の生活に飽きて、少し田舎の暮らしを体験してみたいというような、上から目線なのかとも思っていました。

しかし、ブリューゲルの絵画にじっくり向き合ってみると、身分に関係なく、人間一人一人の人生を丁寧に描いていく彼の姿が浮かび上がってきました。

宗教も日常も分け隔てなく結びつき、人間が人間らしく生きることを願い、ブリューゲルは絵画作品の中に溢れるほどのメッセージを残しました。

【参考文献・サイト】
『ブリューゲルへの招待』朝日新聞出版
『ブリューゲルの世界』森 洋子 著 とんぼの本

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