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初期ルネサンスにイタリアのフィレンツェで活躍したフィリッポ・ブルネレスキ。彫刻家であり建築家でもあったフィリッポ・ブルネレスキは、透視法を確立したり、機械を制作するなど技術者としての才能にも長けていました。フィリッポ・ブルネレスキが設計し完成したいくつかの建築物を中心に解説していきます。
目次
フィリッポ・ブルネレスキの生い立ち
ブルネレスキ像
フィリッポ・ブルネレスキは初期ルネサンスに活躍したイタリアの金細工師であり彫刻家。そしてフィリッポ・ブルネレスキの名前を最も有名にしているのがフィレンツェに今も残るいくつかの建造物です。フィリッポ・ブルネレスキは1377年にフィレンツェで生まれました。父はフィレンツェの公証人。フィリッポ・ブルネレスキは、少年の頃から金細工に関心を持つようになり、フィレンツェで金細工師として登録し工房に雇われ働いていた記録が残っています。公証人であった父とは全く異なる分野の道を歩んだわけです。フィリッポ・ブルネレスキが青年期に制作した作品には、サン・ゼーノ大聖堂のサン・ヤーコポ祭壇の半身像や預言者エレミヤとイザヤをモチーフにした作品があります。
ギベルティと競った作品「イサクの燔祭」
左からフィリッポ・ブルネレスキの作品、ロレンツォ・ギベルティの作品
1401年、フィリッポ・ブルネレスキはある競技に参加します。この競技は輸入繊維商組合が主催したフィレンツェの「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」の第二青銅扉の装飾品を制作するというもの。その時の課題は「イサクの燔祭(はんさい)」でした。イサクとは旧約聖書に出てくるアブラハムの息子のことで燔祭とは普通動物を丸焼きにして神にささげる儀式のことです。つまり、アブラハムは神からその息子を丸焼きにして捧げることを命じられたのです。アブラハムは神の命とあってこの燔祭を実行することになるのですが、アブラハムがイサクの上に刃物が振り上げられた瞬間、神の使いが舞い降り、燔祭は取りやめになります。つまり、神はアブラハムの信仰心を試すためにこのような命令を下したというわけです。この試練を潜り抜けたアブラハムは、それ以降模範的なキリスト教徒として多くの人から称賛されることになります。フィリッポ・ブルネレスキの作品は、この物語のまさにアブラハムが刃物を振り上げている場面を描いたものです。
この公募ではフィリッポ・ブルネレスキの作品とロレンツォ・ギベルティの作品が最終審査に残りました。この時ギベルティの作品を目にしたフィリッポ・ブルネレスキは、敬虔にも、ギベルティの作品こそが選ばれるべきだと主張。ところが「ブルネレスキ伝」の著者であるアントニオ・マネッティによると、審査員はどちらの作品にも甲乙がつけがたいと判断したため、最終的には2人で共同作業をするようになったと言われています。そのため、この洗礼堂の第二青銅扉には今でも2人の作品が飾られています。ただし、実際の扉の制作はギベルティが担当したとも言われています。この出来事が、後に、フィリッポ・ブルネレスキの建築家としての人生に影響を与えることになります。
フィリッポ・ブルネレスキの建築への目覚め
「イサクの燔祭」発表の後、フィリッポ・ブルネレスキの名声は広まり、本格的に芸術の道に進むことになります。この頃から1418年ごろまで、フィリッポ・ブルネレスキは同時代の彫刻家の大家であったドナテッロと共に何度かローマに足を運び、ローマの建築物を数多く見ることになります。やがてフィリッポ・ブルネレスキはそうした建築物の中に一定の法則が隠れていることを見出し、そこから、「透視法」を確立。フィリッポ・ブルネレスキは歴史上、透視法を正式なものにした一人者だと言われています。フィリッポ・ブルネレスキがまず最初に描いた透視図は一点透視法を用いたサン・ジョヴァンニ洗礼堂、そしてそれに続くのが二点透視法によるシニョリーア広場の図面です。ただし、現在残っているフィリッポ・ブルネレスキの透視図では、「サント・スピリト聖堂」の透視図(上図)がよく知られています。
フィレンツェのシンボル「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はフィレンツェのシンボルです。大きな赤褐色のクーポラと呼ばれるドームは、フィレンツェの町のどこにいても目に入ってきます。それほど偉大なこのドームの建築を手掛けたのがフィリッポ・ブルネレスキでした。
ところが、このクーポラが出来上がるまでには、他にも何人かの人が関わっており、技術面だけでなく、プロジェクト管理面でもたやすいものではなかったようです。ただ単に「フィリッポ・ブルネレスキが設計して完成しました」とは言えないのです。
フィリッポ・ブルネレスキがクーポラの設計に入る前、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はすでにその本体部分が出来上がっていました。ところがクーポラの部分があまりにも大きかったため、外側に足場を築いて作り上げていく方法は適切ではなく、依頼者はもっと適した設計内容を公募しました。フィリッポ・ブルネレスキはこの公募に応募しましたが、他の応募者の中に、前に「イサクの燔祭」の競技で競ったロレンツォ・ギベルティがいたのです。
これより少し前、フィリッポ・ブルネレスキは、いくつかの聖堂の建築を手掛けており、ドーム制作のの成果を認められていました。そうしたことから、最終的には、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ設計の担当者に選ばれたのですが、同時にギベルティとバッティスタ・ダントーニオも選出され、結局この3人で共同作業をすることになります。
この共同作業については、いくつかのエピソードが残っています。その一つが、フィリッポ・ブルネレスキが「イサクの燔祭」の競技で負けた時の恨みを晴らすために、仮病を使って何日も休んでギベルティを困らせたといった話です。
いずれにしても共同作業を通してクーポラは完成し、フィリッポ・ブルネレスキの建築家としての偉大さを示すかのように、今でもフィレンツェの街を見守っています。
「サン・ロレンツォ大聖堂」
フィリッポ・ブルネレスキが設計したその他の建造物にはメディチ家の依頼で建築した「サン・ロレンツォ大聖堂」があります。この聖堂はメディチ家の教会の中では最も大きなもの。正面から見た姿はどちらかというと殺風景ですが、室内装飾は驚くばかりです。大きな建物であるだけに、何人かの建築家や芸術家が共同作業で完成させました。フィリッポ・ブルネレスキが担当したのは、身廊と呼ばれる聖堂の入口から祭壇に向かって続いている通路の部分、ならびにその身廊の脇に置かれた信徒席の向こう側にある2つの通路です。これに加えて脇の通路際に作られた聖道具室も設計しました。
信徒席の壁側の通路には、ギリシャ建築を思わせるような巨大な円柱が立ち、その上には伝統的なアーチ型の天井が作られています。これらは内部建築の大まかな要素ですが、もう少し詳しく見て行くと、アーチ型の天井は小さな正方形のパネルで覆われ、それぞれのパネルには金色の装飾で縁取りされています。また天井が高い身廊部が比較的こじんまりとした祭壇部を圧倒しないように、身廊の側壁の上方には丸窓が取り付けられています。
こうした細かな配慮によって、完成したサンロレンツォ大聖堂は、それぞれの要素がみごとに調和した美しい建築物に仕上げられています。
なお、サンロレンツォ大聖堂に付属した図書館は、後にルネサンスの巨匠と言われたミケランジェロによって設計されました。
捨て子保育院(スペダーレ・ディ・サンタ・マリーア・デッリ・イノチェンティ)
これまではフィリッポ・ブルネレスキが設計したキリスト教に関係する建物について解説しましたが、フィリッポ・ブルネレスキは、当時としては珍しいフィレンツェの孤児院の設計も手掛けています。この孤児院は「捨て子保育院(スペダーレ・ディ・サンタ・マリーア・デッリ・イノチェンティ)」と呼ばれる建物です。この建物ができる前は、孤児たちを病院に引き取りそこで面倒を見ていましたが、病院では子供の養育にとって衛生上あまり好ましくないということで、絹織物業組合がフィリッポ・ブルネレスキに正式な孤児院の設計を依頼したのです。ただし、フィリッポ・ブルネレスキが担当したのは建物の前面にあるアーケードのみ。ここでいうアーケードとはアーチがいくつかならんだギリシャ風の廊下のことです。フィリッポ・ブルネレスキが設計したアーケードには9つのアーチでできていて、その両脇にそれぞれ出入りできるアーチが作られています。このアーケードの設計では、それぞれのアーチを支える柱と柱の間の幅と、柱と建物の距離を約5.37mにし、しかも柱の高さを5.35mとしたため、そこに幾何学的にバランスの取れた美しい立方体の空間が作られています。
技術者としてのフィリッポ・ブルネレスキ
フィリッポ・ブルネレスキは透視法を確立したほどですから、技術者としての才能にもたけていました。それを示すのが先にも解説したフィレンツェの象徴「サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂」のクーポラの建築です。ドームという勾配のついた面を、足場を使わずに完成させるため、フィリッポ・ブルネレスキはレンガの積み方を計算し、ただレンガを横に置くだけでなく、途中からレンガを縦に置くことで完成させました。フィリッポ・ブルネレスキのこの優れた技術的才能は、機械の設計図にも良く現れています。例えば歯車やウィンチを使用することによって、それまで必要とされた多大な労力を低減したり、巻き上げ機を考案するなど、技術面でも貢献しました。
まとめ
彫刻家であり建築家でもあったフィリッポ・ブルネレスキの傑作と言えば、何といっても、フィレンツェのシンボルになっている「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」のクーポラです。その美しさと精巧さはもとより、建築面でも足場を使わずにレンガを積み上げるなど技術的な才能を見事に開花したフィリッポ・ブルネレスキ。その功績は初期ルネサンス期の建築界に大きな足跡を残し、その後に続く本格的なルネサンスに引き継がれていくことになります。