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パリを代表するアーティスト(画家)の絵画を解説

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レオナール・フジタこと藤田嗣治が好んでモチーフとした「猫」
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藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)を知っていますか。

彼は明治半ばの日本で生まれ、その生涯の約半分をフランスで過ごした、エコール・ド・パリを代表する画家です。2018年は藤田嗣治の没後50年で、東京都美術館で大規模な回顧展も開催されました。また、オダギリジョー主演の「FUJITA」という映画も2015年に公開されています。

藤田嗣治といえば「乳白色の下地」で有名ですが、その技法を使って描いた裸婦像や自画像にはいつもちょこんと猫がいます。藤田は実際に猫を飼っていて、その作品に猫をよく描いたので、裸婦だけでなく、猫も重要な藤田の作品のモチーフなのです。今回はそのなかでも「猫」に焦点を当てて、藤田嗣治の画業を紹介していきます。

レオナール・フジタこと藤田嗣治(ふじたつぐはる)とは

藤田嗣治の写真
藤田嗣治はエコール・ド・パリを代表する画家です。エコール・ド・パリとは、20世紀初頭のフランス、パリのモンマルトル、モンパルナスに集まったさまざまな国籍の画家たちのこと。そこにはピカソやシャガール、マン・レイ、キスリング、モディリアーニ、パスキンなどの画家たちがおり、互いに切磋琢磨しながら制作活動に励みました。そのなかで唯一の日本人が藤田だったのです。

その藤田の生涯を3つに分けて紹介していきます。

画家として成功するまで

藤田は1886年に陸軍軍医の息子として東京で生まれ、幼いころから絵を描くことが好きでした。14歳頃に画家になる決心をして、パリへ留学する夢を抱くようになります。厳格だった父の許可も得て、その後東京美術学校(現・東京藝術大学)の洋画科に進学。卒業から3年後、26歳で念願だったパリに行きを実現します。

藤田はパリのモンパルナスに住み、そこに集まった若手芸術家たちと交流し、刺激受ける中で自分独自の作品を模索していきました。はじめはパリの風景や、ピカソらのキュビズム絵画に影響を受けた作品、アンリ・ルソーの素朴で新鮮な画風に影響を受けた作品を描いていました。

そして1920年ごろに、「乳白色の下地」の技法と、日本画で用いる面相筆や真書と呼ばれる、書道で用いる筆を使った細い輪郭線で裸婦を描くスタイルを確立しました。これが絶賛され、「乳白色の下地」を使って描く裸婦像は藤田の代名詞に。この乳白色の下地の特性を生かせるように、その作品のほとんどを藤田はキャンバスから手作りしていて、支持体には目の細かい麻布を使っていました。細く、長い輪郭線を引くためには下地が重要な役目を果たしていたからです。

藤田のこの独特の技法についてはずっと秘密とされていましたが、最近の科学的アプローチや写真資料の研究でその秘密が明かされつつあります。そのひとつは「タルク」というすべすべとした白色、灰白色のベビーパウダーなどに含まれる粉を使用していたことです。

そして19年にサロンに出品した作品は全て入選、25年にはレジオン・ドヌール勲章を受賞し、時代の寵児に上り詰めました。

中南米への旅、戦争画家としての藤田

29年には凱旋帰国展のために一時日本に帰国。その帰国をはじめとして、中南米、北米、日本や中国などのアジアへの旅を繰り返すように。さまざまな国の暮らしや文化、街頭の風景を描くことは新たな表現への挑戦になりました。

1938年、52歳のときに従軍画家として中国にわたり、そこで取材した戦争の様子を描いた戦争画を描きました。戦争画には戦場の様子を説明するように描くことがめられ、藤田がこれまで壁画の制作をする中で培ってきた描写力や画面構成力が発揮されました。
1943年には戦時下の様子を描いた大作《アッツ島玉砕》など、戦争の本質に迫ったの数々の名作を制作します。しかし、これが美術界から批判をあび、再びパリに戻ります。

晩年の「レオナール・フジタ」

     
約1年のアメリカ滞在を経た後、1950年に藤田はフランスへ戻ります。フランスに永住することを決意し、55年にフランス国籍を取得。59年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと名乗るようになりました。

晩年の藤田はパリの街並みや、子ども、宗教をテーマに描くようになります。そして礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ベ(フジタ礼拝堂)」を制作し、自分の礼拝堂を立てるということは藤田の長年の夢であり、彼は設計から壁画、ステンドグラスまですべてを自身で手がけました。その2年後、81歳で亡くなります。晩年は日本に帰ることはなく、藤田の人生の約半分はフランスで過ごしたものでした。

また藤田は自分の作品以外にも、生涯を通して本の挿絵や装幀を手掛けました。それは限定版の豪華挿絵本、仏文学の翻訳本、婦人雑誌などです。また藤田自身の本も出版しています。

さらに藤田は自分で裁縫をしたり、大工仕事を手掛けるなど、「手仕事」の画家でもありました。彼の作品は日本各地の美術館でも見ることが可能です。特に箱根のポーラ美術館は日本最大級の藤田のコレクションを所蔵しており、自然と融合した居心地の良い美術館です。ぜひ藤田の作品を見に行ってみてはいかがでしょうか。

藤田嗣治がモチーフとして好んだ猫について

藤田嗣治といえば猫!という方も多いのではないでしょうか。『藤田嗣治画文集猫の本』という2012年に刊行された本は再版を重ねているほどの人気だそうで、藤田ファンだけでなく猫好きも惹きつけているのではないでしょうか。

それほどに藤田の絵画には猫が登場し、裸婦と並んで藤田の絵画の重要なモチーフのひとつになっています。

藤田が猫を描き始めたのは1923年頃で、猫単独ではなく、裸婦や自画像のワンポイントとして描かれました。絵に自身のサインをする代わりに猫を描いた、と藤田自身が述べているほど、藤田の絵のあちこちに猫が登場しています。

藤田の作品に最初に猫が登場した作品は《横たわる裸婦と猫》。この絵画は今回の記事の中でも紹介していますが、裸婦の足元に猫が描かれている作品です。

マネの名作《オランピア》にも裸婦の足元に猫が描かれており、藤田が裸婦と猫を描くようになった一因であると指摘している美術批評家もいます。しかしマネとは異なり、藤田はその後も猫を描き続け、重要なモチーフのひとつであり、藤田のアイコンにもなっていきます。

猫を描くようになるまでの過程で、藤田はさまざまな猫以外の動物も描いています。

1910年代ではウサギやシカ、ニワトリなどのさまざまな動物が描かれており、自画像と猫の組み合わせが確立する1920年代までの裸婦像の多くには犬も描かれていました。そこから、藤田が何の動物を描くか模索していたことが分かります。特に猫や犬の絵を描いたのは1920年代と1940年前後に集中していて、その原点にあったのは1910年代末の仏画であるともいわれています。

藤田は実際に猫を飼っていました。その中にはパリで拾ってきた猫もいたようです。その猫たちと暮らす中で、日々観察を重ねていたため、藤田は猫のふとした可愛らしい仕草やひげ、肉球まで緻密に描くことができたのです。藤田の猫の絵画は美術市場でも人気が高く、それだけに贋作(偽物)も多くなっています。

猫をモチーフとした作品について

横たわる裸婦と猫

横たわる裸婦と猫
◇ 制作年 1921年 72×115㎝ プティ・パレ美術館
猫が登場する藤田嗣治の最初期の作品。

黒をバックとした背景と、横たわっている女性の白い肌がコントラストが印象的なこの絵は、エドワール・マネが1867年に描いた衝撃作《オランピア》を彷彿とさせます。しかし《オランピア》での猫は毛を逆立てていますが、藤田の作品の猫は穏やかです。この作品はサロン・ドートンヌに出品した際に「藤田のオランピア」とも称されました。アフロのような髪型で、すっきりとした目元でこちらを見つめる女性のモデルは「モンパルナスのキキ」。

透き通るように白く、ほのかに赤みを帯びている腕やひざに血色感を感じる女性の肌に、藤田の絵画の特徴でもある「乳白色の下地」をはっきりと見て取れます。

この女性の本名はアリス・プランといい、この時期モンパルナスに集まったキスリング、マン・レイをはじめとする芸術家のモデルであり、インスピレーションの源として活躍した女性です。

特にマン・レイの作品は彼女をモデルにした作品を多く残しており、恋愛関係にもありました。

キキの足元にはハチワレ柄の黒と白の猫がちょこんと座っており、背景の黒とキキの白い肌とのコントラストと対応しているようにも見えます。

手を身体の下にしまいこむこの座り方は「香箱座り」と呼ばれ、すぐに動くことができないので、油断や信頼しているときのポーズです。

この猫はキキに心を許していたのでしょう。
 

争闘

レオナールフジタの争闘
◇制作年 1940年  81×100㎝ 東京国立近代美術館
大きく口を開けて威嚇している猫、にらみをきかせている猫、逃げようとしている猫など、たくさんの猫が連なるように喧嘩しています。黒、茶、さまざまな猫がポーズをとるこの作品の背景は黒。猫たちがいるこの場所はどこなのでしょうか。背景がどこかわからないことから、幻想的な感じもする作品です。

猫たちが渦を巻くようなダイナミックな構図ですが、藤田の圧倒的な構成力によって均整がとれているため、落ち着いた印象も感じられます。また猫の毛並みに注目してみると、太さが微妙に異なっていて、藤田の緻密な表現力と、猫に対する観察眼が伺えます。

猫は一般的には3匹以上で喧嘩することはない生き物。この作品でもよくよく見るとペアになって喧嘩していることが分かります。ペアからあぶれている野次馬的な猫や逃げようとする猫もいます。このような表情豊かな猫たちから、単純な猫の可愛らしさだけではなくおかしさも伝わってきます。

この作品は藤田が中南米や沖縄を旅していた1930年代のあと、1939年に再びフランスを訪れ、戦争のために帰国するまでのわずか9カ月間で描かれた作品。同時期に《猫のいる静物》も描いており、藤田が猫を描くことにさまざまな試みをしていたことがわかります。

この作品は国立近代美術館に所蔵されているため、機会があれば見ることができるかもしれません。

自画像

藤田嗣治の自画像
◇制作年 1929年  61×50.2㎝ 東京国立近代美術館
藤田嗣治の自画像です。水色のシャツと、おかっぱ頭に丸メガネ、そしてちょび髭をたくわえた独特な風貌が特徴的です。藤田の傍らには猫がすりすりするかのように寄り添っています。この「すりすり」は猫が人に対して見せる最大級の愛情表現で、頭などを親しい人やなついている人にこすりつける仕草として知られています。この猫は藤田になついていたのかもしれません。

この絵の藤田は面相筆という細い線を描くために必要な筆を持っています。この細い線はこの作品からも見てとれますが、藤田の作品の特徴です。机の右側には墨と硯、左側には藤田が好きだったタバコやマッチ箱が置かれ、壁には女性が描かれた絵が飾られ、床にはスケッチブックが置かれているこの絵には、藤田のありのままの姿が描かれています。そこからわかるとおり、この作品はまさに自己紹介代わりのもの。多くの画家たちは自分を見つめるために自画像を描いているのに対し、藤田は自分を紹介、演出するために自画像を描いていた面も見受けられます。

またこの作品は、16年ぶりに日本に帰国した1929年の第十回帝展に出品し、画集にも収録され、日本での藤田のイメージを形作っていきました。

それほど藤田は自分の作品を使ったセルフプロディースが上手だったのに対し、画学生時代の藤田はあまりパッとせず、先生だった黒田清輝程い評価を受けるなど、むしろ中の下でした。藤田はフランスに行ったからこそ、埋もれることなく画家として成功を収めたのかもしれませんね。

まとめ

藤田嗣治は海外で成功した初めての日本人画家で、近代日本において非常に重要な画家の1人です。

今回は藤田の生涯から、猫に焦点を当て、彼の作品を紹介しました。

藤田の猫はただ可愛らしいだけでなく、優れた観察力と構成力により描かれた猫です。そのような画家としての確かな力があったからこそ、藤田の描いた猫は美術ファンだけでなく、猫愛好家からも愛されているのではないでしょうか。藤田の作品を目にする機会があれば、ぜひ猫にも注目して鑑賞してみてください。

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