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イギリス出身で21世紀に最も重要とされる世界的アーティストの一人であり、その作品《神の愛のために》が2007年に日本円にして38億という当時の美術のオークションで史上最高額を記録したことで知られる、ダミアン・ハースト(Damien Hirst)という人物。
「アートと金」の関係を露出させたその作品、そして、様々な動物の死骸をホルマリン漬けにした代表的シリーズも加えて、ダミアンハーストはそのスキャンダラスなアート制作でその名が知られています。
同じイギリスのブリストル出身のアーティストであるバンクシーとも交流のあるダミアン・ハースト。今回は「現代アートのアイコン」足りうるその人物と作品に迫ります。
目次
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)という作家について
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)は、1965年6月7日にイングランドのブリストルに生まれました。今では、その作品の話題性やオークションでの落札価格から、展示ごとにニュースになる世界的な有名なアーティストですから想像がつきませんが、その幼少期は荒れたものだったといいます。
ハースト(Hirst)はおそらくアーティストネームもしくは母親の旧姓であり、本名はダミアン・スティーブン・ブレナン(Damien Brennan)という名前。ハーストは実の父には会ったことがないが、12歳のころに離婚のために継父が出て行き、母のメアリー・ブレナンに育てられました。
家庭環境のためか、ダミアン・ハーストは万引きで逮捕されるなど荒んだ少年時代を送ります。しかし、すでに描いたドローイングを見た母のメアリーは才能を見出し、美術の世界に入るための後押しをします。ダミアン・ハーストは2012年のイギリス誌「The Guardian」のインタビューにて当時のことを振り返りながら、「アートの世界に何かをこっそり持ち込み、皆の前で爆発させる方法をいつも探していた」と述べており、現在のそのスキャンダラスな性質のアート作品の根元を幼少期から持ち合わせていたことがわかります。
のちに、ダミアン・ハーストはイングランドのリーズ美術大学(Leeds Colledge of Art)に浪人しつつ入学し、さらにロンドン大学のゴールドスミス・カレッジでもアートを学びました。
ゴールドスミス・カレッジでの在学中から、ダミアン・ハーストは当時のアート学生をけん引する存在だったといいます。学生たちと企画した自主企画展『Freeze』の主催をロンドンのドックランズ開発公社のスポンサーを得たことにより実現し、その展示に訪れたコンテンポラリーアート専門の美術館であるサーチ・ギャラリーのオーナー、チャールズ・サーチに見出されます。
そのサーチ・ギャラリーで行なわれた企画展の「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(Young British Artist)」、通称【YBA】は、同名で「イギリスを代表する若手アーティスト」という意味をもって現代美術史に残るもの。そして、ダミアン・ハーストはその【YBA】の代表格として知られている人物です。
そして、ロンドンの現代美術史にとって重要となる数々の展示ののち、1991年に初個展『Dial, In and Out of Love』を開催。ダミアン・ハーストは「オルタナティブ・スペース」という、ギャラリーでも美術館でもない展示場の形式を多用します。
続いて1993年にはヴェネツィア・ビエンナーレにホルマリン漬けにされた牛の親子の作品《Mother, and Child, Devided》を出展します。
1990年代以前から、ダミアン・ハーストはこれらのような死んだ動物をホルマリン漬けにしてケースに入れた彫刻作品、あるいはインスタレーションの構想をもっており、生命倫理の観点や、これが「芸術」であるかどうかという問題で世界的に物議を醸しました。
しかし、ダミアン・ハーストのアート作品における最重要課題は「死」というものです。ホルマリン漬けにされた動物の死骸の作品で最も知られているのが、そのイタチザメ(Tiger Shark)の作品である《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Livig》。これは1991年に制作されたもの。この作品はターナー賞にノミネートされた1995年に受賞したものですが、実際の死骸を利用したあまりにもショッキングな作品です。
その後も、ダミアン・ハーストは、動物の死体を使った作品を作り続けます。展覧会の多くはダミアン・ハースト自身が企画したものが多く、また作品制作に対しても技巧や技術よりも思考や哲学から発想したインテリジェントのアーティストであることが伺えます。
また、時にソウルとロンドン、ザルツブルグで展示された作品《Two Fucking and Two Watching》は死後腐敗の進んだ雄牛と雌牛を利用したものですが、ニューヨーク公衆衛生当局はこれを展示することを禁止。そしてロンドンのサーペンタインギャラリーで発表した羊のホルマリン漬けの作品である《Away From the Flock》は他のアーティストにより黒いインクがケースに流し込まれ《Black Sheep》という作品に勝手に改変され訴訟を起こすなど、スキャンダラスな経歴を重ねていきます。
そして、またダミアン・ハーストはおそらく世界中の現代美術家の中でも最も「ビジネス」としてアートを成功させ、資産を保有する作家であると思われます。その作品にダイレクトに表現される「死」の世界、そして「経済」との関係を深めたダミアン・ハーストは、2010年代からその存在感を落ち着かせていますが、現代美術史に名を残すアーティストとして知っておかねばならない存在でしょう。
ストリートブランドであるシュプリームとのコラボTシャツや服、少年漫画「ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風」に見られるダミアン・ハースト作品の《ザ・セル》オマージュであることなど、その影響力はコンテンポラリーアートの世界にとどまりません。
ダミアン・ハーストのインスタグラムアカウントのフォロワーは62.3万人を誇り、更新のペースも速く、写真や動画から他のアーティストとの交流も見られるので、ダミアン・ハーストのファンなら要チェックです。
ダミアン・ハーストにおける「生と死」の問題
ゴールドスミス・カレッジの在学中、ダミアン・ハーストは遺体安置所で働いていました。その仕事場には当然のこと、誰とも知らない人の遺体が安置され、冷たく生々しい空気がダミアン・ハーストを取り巻いていたことでしょう。その環境からインスピレーションを受け、その作品のテーマに大きな影響を与えたといいます。
ダミアン・ハーストがその作品制作における芯としているのが、「死」という概念です。ゴールドスミス・カレッジの前のリーズ大学では、学内の解剖学博物館に度々通ったというダミアン・ハーストは、アーティストとしてその名をイギリスから世界中に轟かせる前から「肉体の死」に関して強い関心を持っていました。
もっとも、ダミアン・ハーストが注目していたのは「死」というテーマだけでなく、在学中から最新作にもみられるカラフルなドット(スポット)を等間隔で散りばめた絵画の《The Spot Painting》についてはドラッグがテーマであるとされています。動物の遺体を使ったホルマリン漬けの《Natural History》のシリーズに対し、「錠剤(ピル)」のイメージである「スポット」は、人間が「死」に対抗するための汎用的なツールであることを考えさせられます。
また、より作家の「アイデア」が尊重されていた90年代のアートシーンで注目されたのが、1997にダミアン・ハーストがロンドンのノッティング・ヒルで展開したインスタレーションの《Pharmacy(薬局)》は、展示空間内に薬瓶を並べたもの。文字通り薬局がテーマとされたこの展示は、2003年にはモダン・コンセプト・レストランの《Pharmacy 2》としてオープンされました。
レストラン《Pharmacy 2》はダミアン・ハースト自身が経営するギャラリー「ニューポート・ストリート・ギャラリー」内にあります。薬局なのかレストランなのか、はたまたアート・ギャラリーなのかと見まごうその場所は、同じ場所でも映画『ノッティング・ヒルの恋人』にあった土地とはガラリと印象が変わりますね。
これら《Pharmasy》とそのレストラン、そして《The Spot Painting》のシリーズは、ダミアン・ハーストによる「死」に対する「生」へ向いた表現であるといえるでしょう。しかし、ダミアン・ハーストそのアーティストの色としてより深いのが、やはり「死」の世界でしょう。
これまでの美術作品で「死」そのものを表現してきた画家や彫刻家は数え切れないほど多く、「生と死」の問題は芸術において普遍的な問題です。しかし、ホルマリン漬けの死体を用いて苛烈なほど直接的に観客の目の前に「死」の存在を持ち出したのは、ダミアン・ハーストだけではないでしょうか。
その作品にみられる、牛や羊などのケースに入れられたホルマリン漬けの動物の亡骸を目の前にすると、生物が命を失えば、その瞬間からそれはただの物質となるということを思い知らされます。そのうえ、ダミアン・ハーストはそれらの亡骸をアートの「マテリアル」に変換することで、かえってその亡骸のイメージから死を遠ざけている、とも感じられるでしょう。
「アートと金」の関係
ダミアン・ハーストの名をさらに世界中に知らしめた作品が、18世紀の男性の本物の頭蓋骨の型にプラチナを鋳造し、さらに表面を全体的に8,601個のピンクダイヤモンド(スカルスターダイヤモンド)で覆った作品《For the Love of God(神の愛のために)》。
2007年に制作されたこの作品は、「メメント・モリ(死を忘るなかれ)」というラテン語の警句をテーマの根幹としたもの。ダミアン・ハーストはこの作品について、「ダイヤモンドは死に対し対抗しうるものだと感じた」と述べています。
古代文明より、人は権力者であった死者の副葬品として金銀財宝をあしらいました。光を受けて輝くそれらの宝石を纏わせることは、生者によってその者の「死」を克服する手段であることを、この作品からは感じ取ることができるでしょう。
この作品の価格は、当時のレートで約120億円。これは、健在のアーティストの、シリーズではない単一の作品において、当時世界最高の価格であるといわれています。
また、ダミアン・ハーストは2008年にはサザビーズのオークションにて、世界で初めて自分の作品を直接競売にかけ、現代美術家の作品のなかで最高の落札総額を樹立しました。「生と死」そして「アートと経済」の実態を浮き彫りにするアーティストとして、ダミアン・ハーストはその力をふるっているのです。
代表作《The Physical Impossibilities of Death…..》
ダミアン・ハーストが手がける、馬や豚をはじめとした動物の亡骸を使った作品の中でも、牛はもっとも多く用いられてきました。
その輪切り、あるいは体の正中線で縦に切断した牛のホルマリン漬けの作品でもっとも代表的な作品といえるのが、《Mother and Child Divided》。しかし、この前身となるのが、ターナー賞受賞の最初のきっかけとなったイタチザメの作品《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Livig》です。
日本語でも《生者の心における死の物理的な不可能性》と翻訳される長いタイトルのもので、1992年の『ヤング・ブリティッシュ・アーティスト』展において初展示されました。この展覧会のパトロンであるチャールズ・サーチが制作依頼のためにダミアン・ハーストに資金提供をし、オーストラリアの漁師に委託して捕獲した本物のイタチザメがマテリアルとして使われています。
その漁の費用だけでも6,000ポンド(日本円にして約80万円ほど)で、最終的にはガラスと鋼の水槽やホルムアルデヒド溶液(ホルマリン)を含めた全体の制作費として50,000ポンド(約660万円)かけて制作されたこの作品は、さらに2004年には800万ドル(約8億5,000万円)という価格で売却されたといわれています。
生き物の亡骸はいずれ腐敗して消えゆくものですが、その「死」を「(半)永久」の形にしたそのダミアン・ハーストの作品は、彼のホルマリン漬けの最初期の作品として、イギリスにとどまらず世界的な美術史として後世に残るでしょう。
Amazonで手に入るダミアン・ハーストの作品集
ダミアン・ハーストの作品は、美術館だけでなく、美術系雑誌の記事や作品集、リトグラフ作品などのポスター、時計ブランドのSwatchとコラボした《スポット・ミッキー》の時計などの関連グッズのなかで、一部は通販サイトAmazonでも手に入れられ、誰もが手元に置くことができます。
まず、『美術手帖2012年7月号』は、ダミアン・ハーストの作品《神の愛のために》とともに「DAMIEN HIRST」の名前が大胆に構成されたもの。特集から、その作品をはじめとしてダミアン・ハーストについての知識を熟読できるでしょう。
作品集は基本的に海外の出版社のものであり、Ann Gallagher編集の「Damien Hirst」は中でも初期からの作品や、日本では一般にあまり知られていない《Pharmacy》のシリーズにもフォーカスしたもの。こちらはペーパーバックですが、同タイトルのハードカバーの作品集で、イタチザメのホルマリン漬けの作品が表紙の「Damien Hirst」は、より大きなサイズの重厚な装丁で鑑賞ができるものもあります。
また、「Damien Hirst: Pharmacy London」は同名の展覧会『Pharmacy』を記録したものですが、価格が112,944円とかなり高額。しかし「Damien Hirst: Colour Space: the Complete Works」や「Damien Hirst: Treasures from the Wreck of the Unbelievable」などは8,000円台からと、ファンなら十分に手が届くものでしょう。
作品集のなかでも「For the Love of god: The Making of the Diamond Skull」は、その作品《神の愛のために》がどのように考察され制作されたかを記したもの。ダミアン・ハーストによる設計図や、考古学者や歯科の分野の専門家のエッセイも含む、一つのアートにフォーカスした決定版です。
まとめ
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)のアート作品は、本物の動物の亡骸を用いるなどあまりにも直接的に「死」を観客の目前に提示するものですが、それはまた私たちに「生きることとは何か」を考えさせるものです。
現代は医学や薬学によって飛躍的に死のリスクが回避され、畜産や生命操作などの文明によって私たちは生かされています。それは普段、なんともなしに生きていれば、何をもって自分の「生」が成り立っているのか考えることもありませんが、ダミアン・ハーストのアートを通せば、心に刺さるほど強烈にその「リアリティ」を目の当たりにするでしょう。
ホルマリン漬けにした生々しい動物の亡骸、そして対照的である無機的な錠剤や薬瓶などを使ったダミアン・ハーストの「死」と「生」のアート表現を身近にすれば、自分が生きることにおいて何か観点が変わるかもしれませんね。