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印象派画家のゴーギャンとのアーティストとの共同生活

ゴッホ
作品に見るゴッホの耳切り事件の顛末と解説
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19世紀後半から、ポスト印象派の時代のフランスで狂瀾の人生を生きた画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホとも)。生前はほとんどその作品が世間に認められる事がなく、自責の念から自傷行為を繰り返したといわれています。

そうしたゴッホの狂気のストーリーを代表する事件に「耳切り事件」というものが。自らの耳を切断した経緯とその姿を描いた自画像は、ゴッホの絵画のなかでも有名なものの一つです。

ゴッホの耳切り事件には、同時代の画家ポール・ゴーギャンが関連しますが、南仏アルルの家で一時期同居していたその画家との間には何があったのでしょうか。また、切り落とされた耳が送り届けられた相手など、「耳切り事件」に関連する物事や作品について詳しく解説しましょう。

ゴッホの耳切り事件の顛末と自画像作品

1853年、オランダに生まれたゴッホは、てんかん、あるいは総合失調症などの病気を疾患していたのではないかと考察されています。自身の耳を切り落とした「耳切事件」も、何らかの発作によるものであるという説が濃厚です。なぜゴッホが耳を切り落とすほどの激情に駆り立てられたのか、その半生を追いつつ耳を切った理由を紐解いていきましょう。

ゴッホの自画像

画家を志す以前のゴッホは、はじめは「グーピル商会」という画商で働きますが挫折。続いて父の影響から聖職者を目指しますが、神学校の受験も上手くいきませんでした。それらの原因も、ゴッホが持っていた気難しいメンタルが影響していると考えられます。

父親に精神病院に入れられそうになったことから口論の末に家を飛び出したゴッホは、以前のゴッホと同じくグーピル商会につとめ、成功した弟のテオドルス(以下、テオ)の資金援助を頼りにして画家を目指すようになりました。これが、1881年の頃です。

そうしてゴッホは、まずはオランダの「ハーグ派」と呼ばれる写実主義の美術運動の作家であるアントン・マウフェを頼り、絵を学びますが、これも師であるマウフェとの人間関係を拗らせてしまいます。そののち、ゴッホは実家に戻り家族との関係を回復させ、実家にアトリエを構えて制作を続けますが、父親の死去を原因として住居を失い、オランダを去らなければならないことに。

しかし、1886年にパリへ来たことによりゴッホの作風は転機を迎えます。弟・テオのアドバイスで、薄暗く濁った色彩のハーグ派よりも、芸術の都パリにて最前線であった色彩豊かな印象派に影響を受けたこと、また当時のパリで流行していた浮世絵などの「ジャポニズム」という日本趣味を追いかけたことで、ゴッホの絵画に特徴付けられる「色彩」と、スピーディーに絵筆を動かし筆跡を残す「速描」が見られはじめます。

またパリでは、ゴッホは当時印象派の美術をさらに昇華させようとした若い画家たちと出会います。ポール・ゴーギャンやジョルジュ・スーラなど、アーティストのコミュニティーの中にいた、のちに「ポスト印象派」と呼ばれる画家たちと出会い、ゴッホはさらに芸術に関する見地を深めました。

しかし、パリの街のあまりにも華やかな喧噪はゴッホの性質に合わず、次第に精神的な疲弊からアブサン(アルコール度数の高い、依存性のある酒。幻覚などの作用もあり現在は味を似せたイミテーションのみ販売されている)や煙草に依存していきます。そのうち、心身ともにやつれたゴッホは、南仏のアルルの地で静養をすることにします。

1888年、アルルを訪れたゴッホは、その純粋で美しい自然の風景を憧れた日本の風景に重ね合わせ、その地を「フランスの日本」と賞します。5月に、絵画にも登場する「黄色い家」を借りて住いますが、資金難のゴッホは同じく貧しかったゴーギャンを北仏から呼び寄せ、家賃を折半して共同生活を提案。ゴーギャンはそれを受け入れ、同年10月23日にアルルを訪れます。

ゴッホの黄色い家

ゴッホは、ゴーギャンと共同生活をする前に数々の自信作を仕上げてゴーギャンを迎えようと試みました。その頃に描かれた《ひまわり》《夜のカフェテラス》《黄色い家》などは、美術館などで展示されるたびに、ゴッホ作品のファンの心を鷲掴みにするでしょう。この頃にはゴッホの色彩に対する独自の美学も磨かれ、色と感情の関係性が綿密に結び付けられています。

そうしてゴーギャンと共同生活を開始したゴッホでしたが、早々から二人は価値観が合わないことから関係が冷えていました。テオへの手紙には、ゴーギャンがゴッホの用意したアルルの環境を好ましく思っていないこと、とりわけゴッホ自身に対して不満があるようだと綴られており、実際、ゴーギャンもゴッホについて「意見も技法についてもウマが合わない」という内容を書き残しています。

事件の一週間前、ゴッホとゴーギャンは口論し、関係性がより難しくなります。そして12月23日、ゴーギャンがアルルの黄色い家を立ち去り、ホテルに宿泊している間に、ゴッホは自画像の中でゴーギャンにからかわれた自分の左耳を剃刀で切り落としました。

意識の朦朧とするなか、ゴッホは錯乱し、切った耳たぶの一部を娼婦に送りつけるという奇行に走ります。自身の病を「憂鬱症と悲観主義という現代病だ」と称していたゴッホですが、テオが妹に宛てた手紙の中には「兄には二人の違う人間がいるようだ」と書かれているように、多重人格障害、あるいは双極性障害を患っていた可能性も考えらえます。

この耳切り事件をきっかけにゴッホの「発作」は頻繁になり、サン=レミの精神病院にて拳銃自殺をする1890年まで孤独に過ごしながら、それでも絵画制作を続けました。その作品が認められるようになったのは苦しくも死後のことですが、ゴッホは芸術にかける情熱と孤独に苛まれた、「芸術家」として生きた人間の崇高な姿として今では世界中で知られています。

また、ゴッホは1886年のパリ時代以降から数多くの自画像を手がけてきましたが、中でも耳切り事件後の自画像《包帯をしてパイプをくわえた自画像》そして最後の《頭に包帯をした自画像》は、事件後の大怪我の痛々しさを物語るかのよう。

ゴッホの頭に包帯をした自画像

そしてサン=レミでの療養中に描かれた自画像は、鏡合わせに見て、切り落とされた左側の耳が見えないように、右の横顔のみ描かれています。自画像は、サン=レミの療養生活以降は描かれず、1889年9月末の《ひげのない自画像》が最後の作品となっています。

ひげのない自画像

貧しく、テオの仕送りを頼りに生活するゴッホはモデルを雇う資金がなかったために、人物像は自画像を中心としているという背景があります。37点もの自画像を描いてきたゴッホは、鏡の中の自身との対峙として、また肖像画の練習として自画像を手がけたのです。

ゴッホを激情に駆り立てたゴーギャンとの関係性が現れた作品たち

ゴーギャンとの共同生活を経て、精神的に追い詰められたことで錯乱し、耳を切り落としたファン・ゴッホ。ゴッホはゴーギャンとの共同生活をするためにアルルの黄色い家を借りたといい、そしてゴーギャンが共同生活の提案を受け入れてからというもの、ゴーギャンがアルルまで引っ越してくるまでに、彼に見せるための「傑作」を生み出そうとしました。

そのことから、ゴッホはゴーギャンとの生活を非常に楽しみにしていたということが伺えます。ポスト印象派を中心とした芸術家達のコミュニティーを作ることを計画していたこともあり、他の画家たちとの交流はゴッホにとって数少ない希望であったはずですが、共同体の計画も頓挫、ゴーギャンとも訣別してしまったことで、ゴッホは孤独の海に沈むのです。

ゴーギャンを迎える時のために描いた、ゴッホがアルルで描いた絵画のなかでは、アルルの一角に佇む《黄色い家》や、《ゴッホの寝室》《夜のカフェテラス》が有名です。

また、ゴッホとゴーギャンとの関係性が表れた作品として代表的であるのは1888年に11月に描かれた《ゴーギャンの肘掛け椅子》という、ガス燈とろうそくに照らされた木製のアームチェアの描かれた絵画。同タイミングで描かれた、対になる《ファン・ゴッホの椅子》の絵の、自然光のなかで描かれたと思われる色彩とは画面のトーンに大きな差があります。

ゴーギャンの肘掛け椅子とファン・ゴッホの椅子

ゴッホとゴーギャンはその絵画にかける価値観が対象的で、ハーグ派の写実主義の絵画の模写から始まったゴッホが「現実」の風景や目に見えるものを描いたことに対し、ゴーギャンが描こうとしたのは原始への憧れや人間の理想などの「想像」の世界。

陽の光の中に描かれた、愛用のパイプの置かれた《ゴッホの椅子》と比べ、《ゴーギャンの椅子》の画面にある、暗い部屋に置かれた椅子とそれを照らす灯りは、ゴーギャンの夢想の世界とその理想を表すかのようです。また、座る人のいなくなった椅子を描くことは「芸術の喪失」を意味するとゴッホは述べており、これらの絵はゴーギャンに対する皮肉であるとともに、自分に対する失望の念も表しているといわれています。

ゴッホがアルルの家の屋内で描いた絵にはまた、《ゴッホの寝室》があります。この絵はゴーギャンが黄色い家に暮らす前に描かれたものをはじめとして、同じテーマで3作品描かれました。残りの2作品は、剃刀で耳を切り落とす前、発作で精神病院に入院していた際に、失敗してしまったゴーギャンとの共同生活を思いながらゴッホ自身が複製したものです。

ゴッホの寝室

そして、ゴッホの死後、タヒチに渡ったゴーギャンは晩年に「ひまわり」の絵を4点描いており、それらは亡き友・ゴッホに捧げられたオマージュであるといわれています。ゴッホが描き、アルルの黄色い家に飾られた《ひまわり》の絵は、「ゴッホ作品といえばなんの絵か」と問われれば誰でもはじめに思い浮かぶものでしょう。理想を描くことを善しとしたゴーギャンと違い現実を描くことを善しとし、また社交性に難がありたびたびゴーギャンを悩ませたゴッホですが、その存在はゴーギャンの記憶に深く刻まれていました。

特に、ゴーギャンの《肘掛け椅子のひまわり》は、ゴッホが描いた《ゴーギャンの肘掛け椅子」と呼応する作品であり、耳切り事件の後再会することのなかったゴッホを偲んだ作品とされています。《ひまわり》はゴーギャンにとってもゴッホを思わせる植物であり、敬意を込めるべきものなのです。

ゴーギャン「肘掛け椅子のひまわり」

ゴーギャンの《肘掛け椅子のひまわり》は現在E.G.ビュールレ・コレクション財団が保有しています。

切り落とした耳を届けた相手とは

ゴッホは、ゴーギャンと訣別した悲しみ、あるいは自責の念やストレスから自分の耳を切るという狂気の行動をし、その果てに錯乱したままその耳の破片をアルルの娼婦に宛てて送り届けたという、飛び抜けてクレイジーな逸話が残されています。

耳を切り落としたのち、包帯で巻かれた自身の自画像《包帯をしてパイプをくわえた自画像》は、耳切り事件と関連するゴッホの晩年の作品として有名ですが、切った耳を娼婦に送りつけるというサイコパスなエピソードはそれほど知られていません。

包帯をしてパイプをくわえた自画像

切った耳を送った相手の娼婦の名前は、ゴッホお気に入りの娼婦ラシェル、もしくはガブリエル・ベルラティエといわれています。アブサンか他の酒で酔っ払っていたと思われる当時のゴッホは、血まみれの耳たぶの肉片を持って、そのお気に入りの娼婦にプレゼントしに売春宿へ向かいました。

黄色い家に帰ったゴッホは出血多量のため意識不明となりますが、血まみれでアルルを徘徊していたゴッホを見た近隣住民の通報により、警察官により自宅で発見されて一命を取り留めます。

そして当時の新聞に耳切り事件は掲載されますが、記事にはヴァンサン・ヴォーゴーグと名乗る画家が娼婦に「これを大事にとっておいてほしい」と耳たぶの入った小箱を渡したと書かれます。「ヴァンサン・ヴォーゴーグ」とはオランダの名前である「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)」のフランス語の読み方。

ゴッホはアルルに静養に来たはずですが、娼婦宿に通い、浴びるように酒を飲むなど、荒んだ生活が続いたせいで精神錯乱に陥ったとも考えられています。また、ゴッホはオランダで暮らしていた時代から娼婦に入れ込むことがあり、うらぶれた生活の中で娼婦と孤独感を共有していたことで、切り落とした耳をお気に入りのひとりに送ったのかもしれません。

こうしたゴッホの狂乱の人生は数本の映画作品でも見ることができます。一説には、ゴッホとゴーギャンがその娼婦を巡って口論していたこと、耳を切り落としたのはゴッホ自身ではなくゴーギャンであるなどの推測もされていますが、真相は未知のままです。

耳切り事件のキーワードである南仏アルルの“黄色い家”

南仏アルルの“黄色い家”
ここで、いま一度ゴッホの耳切り事件が起こったアルルの黄色い家について考察してみましょう。

1888年に南仏アルルに到着したばかりのゴッホは、当時の民宿に当たるカフェ(酒場)の2階に宿をとります。しかし家賃を払えず、小さな家を借りることに。それが、事件の渦中である黄色い家です。

ゴッホは家賃の支払いのため、そして交流が居心地よかったパリで出会った画家たちに手紙を送り、自身が理想とした「芸術家たちの理想郷」をアルルの黄色い家を拠点として作ろうと考えます。しかし、精神を苛まれるゴッホの提案はほとんどの画家に断られ、ポール・ゴーギャンひとりだけが押し切られる形で受け入れたました。

ゴーギャンは当時北仏で絵画制作をするなか借金を抱え、生活に困ってゴッホの支援者である弟のテオの金銭援助を自身も頼ろうと考えていたともいわれています。自ら進んでゴッホと共同生活をしようとしていたかというと、ネガティヴな回答があるでしょう。

ゴッホが描いた「黄色い家」は現在ゴッホ美術館に所蔵されています。また、南フランスのアルルにあった黄色い家は戦火で喪失し、現在はその場所にゴッホの描いた《黄色い家》の絵画のレプリカがあり、黄色い家があった場所に建っている白い建物の壁には「TERMINUS & VAN GOGH」と記されています。

耳を切り落としたという、今では語り継がれる芸術家の逸話でも、当時でいえばおぞましい事件のあった黄色い家そのものを訪れることはできませんが、それが惜しまれるのか、はたまた幸いかどうかは、その地を訪れる人によるところでしょう。

まとめ

頭に包帯を巻いた自画像
反骨精神に満ち、気難しい性格ゆえに自分自身の人生を困難に溢れさせたファン・ゴッホ。「ゴーギャンは自分のことを好ましく思っていないようだ」というテオへの手紙の一文からは、アブサンに溺れ、神経発作に苛まれ、精神を病んでもなお、冷静な分析のできる人物であったことが伺えます。

また、奇妙な話ですが、現在、ゴッホの切り落とされた耳は「再現」されてドイツの美術館に展示されているのです。その耳がどのようにして作られたかというと、ディームット・シュトレーベという現代アーティストがゴッホ家の子孫のリウーウェ・ファン・ゴッホの耳から採種した軟骨細胞を利用して、3Dプリンターで形成。

軟骨細胞を培養して形成されたその耳は生きており、音に反応するといいます。現代に蘇った、ゴッホの切り落とされた耳は何を聞いているのでしょうか。いささか不気味な話ではありますが、また感慨深くもありますね。

現代では「芸術家」は病的な情熱をもってその人生を全て芸術に捧げるもの、といったイメージ像がありますが、「耳切り事件」をきっかけにゴッホがそのイメージの一端を形成しているといっても過言ではありません。

自分の耳を切り落とすほどの激情があってこそ、あのまばゆいばかりの色彩の絵画を可能にしたのだといえたものですが、あと数年長生きして、テオやその関係者の支援があれば、もっと多くの傑作を世に残していただろうと考えると、その早すぎるゴッホの死が惜しまれるでしょう。

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