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ヨーロッパの画家の絵画や美術作品とジャポニズムを解説

ゴッホ
ゴッホと浮世絵の出会い。そして作品に見る影響とは
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ゴッホの作品は浮世絵から受けた影響が強く表れていることでよく知られています。19世紀のヨーロッパを風靡した日本の伝統芸術、浮世絵。ゴッホはこの東洋のアートにどのように出会い、そして浮世絵のどのような手法や特徴を自分の作品に取り入れていったのでしょうか。浮世絵の影響を見いだせるゴッホの作品を見ながら、ゴッホと浮世絵との関わり合いを見ていきたいと思います。

ゴッホと日本の伝統芸術 浮世絵との出会い

浮世絵とゴッホの出会いを解説
1859年、日本が開国すると、日本の物資だけでなく日本の文化もヨーロッパに輸出されるようになりました。輸出された文化としては浮世絵を初め、日本の陶器、着物、扇子などがあげられます。そして1862年のロンドンの万国博と1867年のパリの万国博でこうした日本の文化が紹介されると、一躍人々の日本文化に対する関心が高まり、「ジャポニスム(ジャポネズリーとも言われる)」という一つの大きなブームが起こりました。このブームは、1939年に第二次世界大戦が始まるまで続いたのですから、ゴッホが絵を描いていた時期はまさにジャポニスムの最盛期だったと言うことができます。

ゴッホが本格的に浮世絵に接するのはパリに引っ越してからですが、オランダにいるときにもすでに浮世絵に関心を示し、数枚の浮世絵を所持していたと言われています。パリには当時多くの新印象派の画家が集まっており、ゴッホはそうした画家達との交流を通して浮世絵への関心をさらに強めていきます。1887年には画商サミュエル・ビングから浮世絵を借り、借りた絵を参考にしてゴッホ自身の作品を制作し、元の絵と併せゴッホが制作した絵をカフェ「タンブラン」で開いた展覧会で展示。展示されたゴッホの絵はパリの画家達に強い影響を与えました。またゴッホはパリでいっしょに暮していた画商である弟のテオと協力して500点にもおよぶ浮世絵を蒐集。現在これらの浮世絵はアムステルダムのゴッホ美術館に、ゴッホの作品といっしょに所蔵されています。

ゴッホが取り入れた浮世絵の手法や特徴とは

「種まく人」(1888年、アルル)

ゴッホの種をまく人
引用元:Wikipedia
浮世絵には構成面と色彩の扱い方において、従来の西洋画とは全く異なる特徴があります。まず構成面では、遠近法が使われていません。ただ遠くと近くの違いを出すためにすぐ近くにある物は極端に大きく描くことがあります。また西洋画では樹木など画面の端に置くことは少なく、そのために途中で切り取られるということがありません。ところが浮世絵では樹木などを画面の端に置き意識的に断ち切る手法も使います。こうした浮世絵の構成上の手法をうまく取り入れたゴッホの作品が1888年制作の「種まく人」です。この作品では現実離れした大きな太陽が地平線に沈んで行こうとしています。そして正面中央には斜めに切り取られた樹木が目障りなくらいの大きさで描かれています。
では、色彩面ではどうでしょうか。当時のヨーロッパでは、明るい色を使わず茶褐色を中心とした色を使った手法が主流でした。パリに引っ越す前、ゴッホの描いた絵も、同様にほとんどが暗い色のものばかりでした。ところが浮世絵に出会ってからのゴッホは明るい色彩を大いに取り入れ、しかも色数もそれまでとは比べ物にならないほど多く使うようになったのです。

影響が見て取れる作品

浮世絵の影響を受けたゴッホの作品には大きく分けて3つのタイプがあります。一つは浮世絵を模写したもの。2つ目は浮世絵を背景に取り込んだもの。そして3つ目は浮世絵の持つ手法や特徴を活かして描き上げたものです。
浮世絵を模写した作品

「ジャポネズリー:梅の開花」(1887、パリ)

ジャポネズリー:梅の開花
引用元:Wikipedia
ゴッホはミレー、ベルナーレ、レンブラントなどの画家の作品を模写を通して絵の技法を学んだ画家だとも言われています。特にミレーの作品を模写したゴッホの作品は21点にものぼり、最も多くなっています。浮世絵についてもゴッホは模写作品を3点残しています。最もよく知られているのが「ジャポネズリー:梅の開花」。この作品は歌川広重の「名所江戸百景『亀戸梅屋舗』」を模写したものですが、ゴッホの作品で心憎いのは、絵の両端にオレンジ色の帯を作りそこに黒字で日本語らしき文字を書いていることです。

             

「ジャポネズリー:おいらん」(1887、パリ)「ジャポネズリー:雨の橋」(1887、パリ)

ジャポネズリー:花魁、ジャポネズリー:雨の橋
引用元:Wikipedia
浮世絵を模したゴッホの作品の残りの2作は、「ジャポネズリー:おいらん」と「ジャポネズリー:雨の橋」です。どちらも広重の作品を模写したものですが、この2作では絵を枠で囲っています。絵自体もすでに使われている色数が多いのに、「ジャポネズリー:おいらん」では枠自体にも別の絵を描いているし、「ジャポネズリー:雨の橋」では緑とオレンジのコントラストの強い枠を付けています。ゴッホのこの2つの作品では、全体として色数が大変多く、かなりごちゃごちゃした感じのする仕上がりになっています。

浮世絵を背景に取り込んだ作品

「タンギー爺さん」(1887年夏、パリ)

タンギー爺さん
引用元:Wikipedia
浮世絵を背景に取り込んだ作品にはゴッホの代表作の一つにもなっている「タンギー爺さん」があります。タンギー爺さんとは、絵具屋の販売や画商をしていた店のオーナーのことで、損得を抜きにして多くの画家達に親切にしてくれた人物。ゴッホはそんなタンギー爺さんのことをひどく気に入って、彼の人物画を描きました。店の壁には浮世絵が掛けてあったと言われており、ゴッホの描いたタンギー爺さんの絵でもその背景は浮世絵で埋まっています。ただし、タンギー爺さんが実際にこの絵の中の浮世絵を飾っていたのではなく、ゴッホは自分のコレクションの中の浮世絵を参考にして描いたと言われています。ゴッホが参考にした浮世絵は全部で6点あり、そのうち2点は歌川広重、1点が歌川国定、1点が渓斎英泉の作品ですが残りの2点は作者が特定されていません。

「頭に包帯をした自画像」(1889年、アルル)

頭に包帯をした自画像
引用元:Wikipedia
浮世絵を背景に取り入れた作品には、その他、1889年にアルルで制作した「頭に包帯をした自画像」があります。これはゴッホがその頃共同生活をしていたゴーギャンと仲違いになり起こった「耳切り事件」、つまりゴッホが自分の耳を切り落とした後に描いたものです。絵の中のゴッホは頭の周りに包帯を巻いています。そしてその背後の壁に浮世絵が見られます。この自画像の中のゴッホは事件の後にも拘わらず不思議なほど穏やかな表情。そして背景に富士山をバックにして2人の芸子が踊る姿を表現した色鮮やかな浮世絵が見えるのもどこか奇妙です。

浮世絵の持つ手法や特徴を活かした作品

ゴッホの作品の中で浮世絵の持つ手法や特徴を活かしたものは数多くあります。実際ゴッホがパリに引っ越してから描いたものは多かれ少なかれすべて浮世絵の影響を受けていると言われています。実際ゴッホは1888年7月5日にアルルからテオに宛てた手紙の中で「僕の作品はすべてどこかしらジャポネズリだ…」と述べています。
浮世絵の影響を受けたとみられる作品では前述の「種まく人」がもっとも代表的な例ですが、その他浮世絵の手法をゴッホなりに変化させて絵の制作に反映した代表的なものには、「寝室」(1888年、アルル)、「子守りの女(マダム・ルーランの肖像)」(1889年、アルル)、「花咲くアーモンドの木の枝」(1890年、サン・レミ)などがあります。

「寝室」(1888年、アルル)

ゴッホの寝室
引用元:Wikipedia
「寝室」は、アルルのゴッホ自信分の寝室を描いたものです。この絵は全体として平面的で、また色も原色に近いものが使われています。ゴッホはテオ宛の手紙の中で「日本の版画のように描いた」と説明しています。

「子守りの女(マダム・ルーランの肖像)」(1889年、アルル)

子守りの女(マダム・ルーランの肖像)
引用元:Wikipedia
「子守りの女(マダム・ルーランの肖像)」は、アルルの郵便配達人ジョセフ・ルーランの夫人をモデルにして描いたものです。ゴッホはルーラン一家と親しくなり精神的も支えられたと言われています。ゴッホはこの絵の他にも同じテーマで背景や着ている服などが少しづつ異なる作品を4点描いています。題名にも「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」「子守するルーラン夫人」などいくつかの異なる表記があります。この絵における黒い太めの輪郭線とはっきりとした色彩が浮世絵の明らかな影響として解釈されています。

「花咲くアーモンドの木の枝」(1890年、サン・レミ)

花咲くアーモンドの木の枝
引用元:Wikipedia
1890年にサン・レミの療養所で制作した「花咲くアーモンドの木の枝」はゴッホが甥(弟のテオの長男)の誕生を祝って制作したものです。

ゴッホは甥の誕生を大変喜び、その気持ちを表すために「青い空を背景に、白い花をつけたアーモンドの木の枝の絵」を描き始めたことを母への手紙で伝えています。この絵ではアーモンドの太い枝が正面の中央に描かれて、しかも下から見上げている構図が浮世絵の影響を受けたことを物語っています。

まとめ

鮮やかな色彩とそれまでの西洋画にはなかったような大胆な構成で迫るゴッホの作品の数々。その背後に日本の文化である浮世絵の手法や特徴が強く影響していたことは、意外な気もしますが、日本人として誇りに思うことでもあります。それでいながら、やはりどの絵も決して浮世絵ではない。どの絵にもゴッホらしさが表れている。ゴッホは異国のものを柔軟性を持って取り入れ、そこから新しいものを創作しきました。ゴッホのそんな情熱が作品の中に表現され、見る人の目を惹きつけ、大きな感動を呼び起こすのではないでしょうか。

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