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絵画の有名画家の同居生活とアート作品を紹介

ゴッホ
ゴッホとゴーギャンはなぜ共同生活をし、そして破綻したのか
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絵画の印象派時代を語る上で欠かすことのできない2人の画家ゴッホとゴーギャン。

共に強烈な色彩と個性がほとばしる絵を数多く生み出しました。オランダ生まれのゴッホとフランス生まれのゴーギャン。一見接点がないようにも見える2人ですが、実は、フランスのアルルで2か月という短い間ですが共同生活をしています。

いったいなぜゴッホとゴーギャンはいっしょに住むようになり、そしてなぜ2か月で破たんしてしまったのでしょうか。その背景を探ってみたいと思います。

ゴッホとゴーギャンの同棲時代

ゴッホの自画像
印象派の前衛画家であったゴッホとゴーギャンがなぜ同棲するようになったのかということを知るには、ゴッホのそれまでの人生がどんなものだったかを理解することが必要になってきます。

ゴッホは1853年オランダのフロートツンデルトの牧師の家に生まれました。若い頃から激しさを内に込めていたゴッホは画商を志したり聖職者になろうとしましたが、どれも失敗。そして分かったことは自分は絵描きになりたいということでした。

かくして絵を描き始めるのですが、描いた絵は売れることはなく、生活費はもっぱら弟のテオが調達。パリで画商をしていたテオは、ゴッホのことをよく理解し、ゴッホの絵をなんとか売ろうと努力を続けます。そしてこのゴッホに対するテオの経済的、精神的な援助は死ぬまで続くのです。それにもかかわらず、生涯を通してゴッホの絵は売れることはほとんどありませんでした。

1886年、気を入れ替えるため、ゴッホはオランダを去りパリのテオの所に移り住みます。移り住んで最初の頃は、テオとの共同生活も順調にいっていました。ところが、とにかく描いた絵が売れないという現実がそこにあるわけで、それによりゴッホのいらだちが極限に。テオとも口論が絶えなくなりました。1888年、ついにゴッホはテオの下を去りフランスのアルルに移り住みます。

アルルは、フランス南部のマルセイユ近くにある町。地中海に面し、天気の良いことで知られている地域です。ゴッホがアルルを選んだのは、パリ在住中に影響を受けた日本に憧れ、日本は明るい日差しの差す素晴らしいところだと思うようになり、天気の良いアルルが日本と似ているのではないかと考えたためでした。実際にアルルに移り住んだゴッホは、ここの日差しの明るさが大変気に入り、気を持ち直してまた頑張って絵を描こうと思うようになるのです。

そこで考えたのが、「黄色い家」という愛称で呼ばれていた借家を共同のアトリエにして多くの画家たちに集まってもらおうという案でした。こうしてゴッホはテオを通して何人かの画家に手紙を送るのですが、結局この案に良い返事をくれたのはゴーギャンだけでした。
黄色い家
ではなぜゴーギャンはゴッホの案を受け入れたのでしょうか。理由はゴッホと一緒に仕事をしたかったというよりは、無料で宿泊しながら創作活動が続けられることや画商のテオに近づくことで有利になるのではないかという合理的な理由からだと言われています。こうして、アルルに来ることを受け入れたゴーギャンでしたが、実際に到着したのは3か月後。その期間の長さからゴーギャンのためらう気持ちが感じられなくもありません。その間、ゴッホは、ゴーギャンを歓迎するためにアルルに咲いていたひまわりの絵をたくさん描きながら、ゴーギャンの到来を待ったのでした。
ゴッホ・ひまわり
1888年10月、やっと待ちに待ったゴーギャンがやってきました。共同生活を始めたゴッホとゴーギャンは連れ立って「アリスカン」という古代ローマ遺跡が並ぶ散歩道を描いたり、ぶどう畑を見学しそれを絵にしたりするなど、充実した創作活動を続けました。2人の創作活動がどれほど激しいものだったかは、ゴーギャンが家を出て行くまでの2か月の間に2人の創作した作品の数を見るとよくわかると思います。
ゴッホ・アリスカン
ゴッホ37点、ゴーギャン21点。一般的にゴッホは絵の制作時間が短いこと、ゴーギャンは反対に長いことで知られていますが、そのゴーギャンでさえも2か月で21点もの絵を残したのですから、共同生活がお互いの創作活動に良い刺激を与えていたことがわかります。

なぜゴッホとゴーギャンは蜜月から破綻へ向かったのか

ゴーギャンがアルルに到着してからしばらくの間は、上述のように、お互いに刺激し合いながら蜜月の時期を過ごしました。特に常に自分の技術を高めることに関心のあったゴッホは、ゴーギャンの技法を熱心に学ぼうとしたと言われています。その結果、当時のゴッホの絵にはゴーギャンの絵の特徴がみられるものがいくつかあります。例えば、アルルのレ・リス大通にあったダンスホールの情景を描いた作品「アルルのダンスホール」では、ゴーギャンの絵の特徴である太い輪郭線を使うクロワゾニスムがはっきりと使われています。一見ゴーギャンの作品ではないかと思ってしまうほど、その影響が顕著に現れているのです。
アルルのダンスホール
このようにゴッホはゴーギャンから画法を学ぼうとしましたが、同時に、ゴーギャンの絵についても自分なりの意見を述べるようになっていました。こうしたことがよくわかるのは、当時、ゴッホもゴーギャンもテオによく手紙を書いていたからです。例えばゴーギャンは、ゴッホがゴーギャンの絵に大変関心を持っているが、ゴーギャンが絵を描いているといつも間近で観察し、絵の描き方についてあれこれ意見を述べるという内容の手紙を書いています。その結果としてゴーギャンはお互いの性格が大変違っていると感じ、共同生活に平穏さを見いだせなくなっていったのです。

2人の仲が悪化したもう一つの原因は絵に対する根本的な考え方の違いでした。ゴッホは写実を重視し、自分の目に映ったものを絵に表現するタイプでした。一方ゴーギャンは想像を通して描くことを重視していました。もし絵のスタイルが異なるだけで、お互いに尊重し合っていたのなら、問題にもならなかったのかもしれませんが、元々個性が強く絵に対する考え方が異なるゴッホとゴーギャン。破綻するのも時間の問題だったのかもしれません。

1888年12月23日、ついに2人の間に大きなけんかが起こり、ゴーギャンは家を出て行ってしまうのです。この時に起きたのがあの有名な「耳切り事件」でした。ゴッホの作品の中にも耳から頭にかけて包帯をまく自画像が残っていますね。
包帯を巻いてパイプをくわえた自画像
この事件が起きた理由としては、けんかしてゴーギャンが家を出て行ったことで半狂乱になったゴッホが自分の耳を切り取ったと言われてきました。ところが2009年にドイツで出版された「In Van Gogh’s Ear: Paul Gauguin and the Pact of Silence」と題する本によると、著者であるハンス・カフマンが警察に残っている当時の事件簿を調べたところ、「口論になりゴッホが最初にゴーギャンにワイングラスを投げつけ、それに逆上したゴーギャンがフェンシングの剣でゴッホの耳を切った」と書かれていると述べています(ゴーギャンはフェンシングの名手でした)。

もしこのことが本当なら、なぜゴッホは自分で耳を切り落としたと言ったのでしょうか。それはゴーギャンをかばうためだったのではないかと考えられています。最終的にけんか別れし、共同生活もわずか2か月しか続きませんでしたが、ゴッホの共同アトリエの案を受けてくれたのはゴーギャンしかいなかったのだし、ゴッホは画家としてのゴーギャンを尊敬していたからでしょう。けれども、この耳切り事件によって、ゴッホは周りの人から精神病者とみなされ病院に収容。そして次にはサン・レミの療養所に隔離されることになってしまうのです。

すでに波乱万丈だったゴッホの人生ですが、さらに大きく狂いだしたのはこの時からで、2年もしないうちにテオの画商の仕事がうまくいかなくなったこともあり、経済的に行き詰まり銃による自殺でこの世を去るのです。とは言うものの、この自殺説にも異論があります。撃った弾が自殺ではありえない角度で入射していたことなどから、誰かに撃たれたのではないかと、そして撃った人をかばおうとしたのではないかとも言われています。ゴーギャンとの出会いはゴッホに画家としての大きな成長をもたらしましたが、同時に悲劇の始まりだったとも言えるのかもしれません。

まとめ

カラスのいる麦畑
多くの人から愛されて数多くの作品を生み出した印象派の画家ゴッホとゴーギャン。世界中で最も有名な画家の筆頭に挙げられると言っても過言ではないかもしれません。そんな2人は、わずか2か月という短い期間でしたが、フランスのアルルで共同生活を送りました。最終的に2人の関係は破たんし、それぞれ別々の道を歩むことに。特にゴッホは決別により精神不安定となり最後は「自殺」という悲しい結末になってしまいました。

けれども、歴史を辿ってみると、この2か月の共同生活は、お互いに刺激を受けながら充実した創作活動ができた時期だったようです。たくさんの傑作が生みだされたのもこの時期であることを考えると、このゴッホとゴーギャンの共同生活は、絵画の歴史において大きな意味をもつ出来事だったと言うことができるのではないでしょうか。

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