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狂気に苛まれた激情の画家、ファン・ゴッホ。アルル時代に描かれた絵画《ひまわり》は、おそらく世界中の誰もがゴッホ作品として第一に知るもの。
実は、ゴッホは6作品もの《ひまわり》を描いています。なぜ、それほどまでにゴッホはひまわりに惹かれたのでしょうか。それは、神経発作、自身に対する失意、友の喪失、アブサンに溺れ錯乱し、果てには拳銃自殺という悲惨な人生の中に見出した光だったのでしょうか。
ゴッホの生涯とともに、ゴッホの愛した《ひまわり》の絵に込められた意味について解説していきます。
目次
ゴッホについて解説【基礎知識】
19世紀末に活躍した画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(フィンセント・ファン・ゴッホ)は、今ではフランスのポスト印象派を牽引した有名な芸術家であると認められていますが、生前はあまり絵が売れたことがなく、ほとんど弟のテオドルス・ヴァン・ゴッホ、通称テオからの仕送りによって生活していた、当時は「うだつの上がらない画家」として苦悩の人生を送っていました。
おそらくは、自分の作品が現代では100億以上の値段がつき、ルーブル美術館をはじめとした世界中のギャラリーに展示されるような名画になるとは思いもよらなかったでしょう。あるいは、いつか必ず自分の絵が日の目を見ることが来ると確信していたからこそ、絵画制作を続けていたのかもしれません。
ゴッホが画家として活動をしていたのは、早くて1881年から、拳銃自殺をした1890年のわずか9年間。生まれてこのかた芸術家としての人生を歩んだピカソのような人物とは異なり、37年という短い人生の果てに画家となった人物です。
就職も受験もうまくいかず、テオの支援を受け画家として活動するようになってからも、中毒性の高く幻覚作用のある酒であるアブサンに依存したり、娼婦宿に通い、神経発作で錯乱して自身の耳を剃刀で切り落とすなどの狂気の沙汰をみせ、激動の人生を送ったゴッホ。その色彩は、暗闇に浮かび上がる光りのまばゆさを感じさせます。
そのように、悲惨な人生のなかに希望を見いだすことがあったのでしょうか。まずは、映画化もされているそのゴッホの人生について、いま一度おさらいしてみましょう。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)は1853年、オランダ南部のズンデルトに、6人兄弟の長男として生まれました。聖職者の父を持ち、16歳の時に画商グーピル商会(Goupil & Cie)に勤務しますが、7年の勤務ののち解雇されます。
そののち、父のように聖職者の道を目指し、アムステルダムの神学校に入学を試みるも、受験科目の多さに挫折。1881年ごろから、同じようにグーピル商会に勤め安定していた弟のテオの金銭的支援を受けつつ、画家として絵画制作をするようになります。
はじめ、ゴッホは現代に知られているような鮮やかな色彩の絵ではなく、当時のオランダの「ハーグ派」という写実様式の作家であるアントン・マウフェに習い、くすんだ色合いの絵を描いていました。印象派に習って色彩豊かな絵を描くようになったのは、テオの進言をきっかけにしています。
気難しい性質であったゴッホを精神的にも経済的にも支えた弟のテオなくしては、ゴッホという画家の存在はなかったのかもしれません。テオは兄であるヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて「兄には二人の違う人間がいるようだ」と述べており、おそらくは躁うつ病、あるいは境界性人格障害を患っていた可能性を指摘されています。
そのためか仕事も人間関係もあまりうまくいかなかったゴッホですが、1886年にテオを頼りパリへ渡った時、ポスト印象派に名を連ねるポール・ゴーギャンやジョルジュ・スーラ、アンリ・ロートレック、エドガー・ドガらとの交友をきっかけに、彼らと絵画に対する情熱を分かち合える喜びから、いつか芸術家たちのユートピアを作ろうと考えました。
そのユートピア計画の地としたのが、南仏のアルルです。パリの地で印象派と日本の浮世絵から着想し自身の画風を固めていったゴッホは、しかしパリの喧噪とアルコールやタバコで体調を崩し、療養のために1886年にアルルの地へ移りました。ゴッホはアルルの美しい自然を「フランスの日本」と例え、パリに次いで絵画制作の拠点とします。
そこで住居としたのが、絵画《黄色い家》にも見られる小さな一軒家です。ゴッホはパリで出会った美術家たちに手紙を書き、アルルへと呼び寄せようとしますが、人望がなかったゴッホの元には快い返事が来ませんでした。唯一、北仏で活動しつつ借金を抱えていたゴーギャンのみ、押し切られる形で共同生活を送ることを承諾。
ゴッホは、ゴーギャンがアルルの黄色い家に来るまでに、傑作を仕上げてみせようと考え、《夜のカフェテラス》や《ゴッホの寝室》などの作品を次々と制作します。そして、そのなかでも注目すべき作品が4点の《ひまわり》です。
ゴッホの《ひまわり》は、ゴーギャンとの共同生活に贈るための部屋の装飾画として描かれました。それほど、ゴッホはゴーギャンとの生活に期待を持っていましたが、結局2人は作品や制作に対する価値観の違いで関係性が破滅。
口論の末、ゴーギャンは黄色い家を去り、ゴッホは錯乱して自身の耳を切り落としました。これがかの「耳切り事件」であり、この事件をきっかけとしてゴッホの神経発作は悪化します。その後、アルルの北東に位置するサン=レミの療養院に入院。
退院後、パリでテオとその妻と子供に会うも、発作が悪化してオーヴェル=シュール=オワーズの村で拳銃自殺を図ります。自身の胸をピストルで撃ったゴッホは、2日後にテオに看取られながら息を引き取り、その激動の生涯を終えました。
なぜゴッホはひまわりに惹かれるのか
ここで、ゴッホがなぜ《ひまわり》の絵画を多く手がけたのか、解説していきましょう。ゴッホが描いたひまわりの作品は、全部で7枚。3輪のひまわりが1枚、5輪のひまわりが1枚、12輪のひまわりが2枚、最も有名な作品を含む15輪のひまわりが3枚です。
アルルで描かれたひまわりの作品は、ゴーギャンとの共同生活に向けて部屋を装飾するために描かれたもの。黄色い家の内部は、《アルルのゴッホの寝室》の絵画からも分かるように水色の壁で統一されており、黄色いひまわりの絵をその壁に飾ることで、ゴッホの絵画に見られるような色彩のシンフォニーを生み出そうとしたのです。
これらのひまわりの作品に使われたのは、「クロムイエロー」という当時の新作の絵の具で、クロム酸鉛を主成分とした彩度の高い黄色です。ゴッホはこの黄色を、《夜のカフェテラス》などの他の作品にも使用しており、ゴッホ作品の特徴ともいえるこの黄色を、よりまばゆく描くために色彩のバランスを工夫しています。
クレラー・ミュラー美術館所蔵の《夜のカフェテラス》は、名探偵コナンの映画「探偵たちの鎮魂歌」でも登場する人気作品。この絵では、夜空の闇と対照的に、人々の集うカフェのテラス席の煌々と輝く明かりが視界にに飛び込んで来ます。画像にあるように、ゴッホの黄色は他にも《沈む太陽と種を蒔く人》の太陽の表現にも使っています。つまり、ゴッホはクロムイエローを「光」の表現として使用していたということとも考えられます。
また、アルルで芸術家たちの「ユートピア」の拠点とするために借りた《アルルの黄色い家》の絵画も、クロムイエローが使われています。ゴッホの黄色は、ゴーギャンとの共同アトリエを彩るための《ひまわり》や、画家たちの理想郷である《黄色い家》という、悲惨な人生を過ごしたゴッホの数少なかった希望を象徴するカラーなのかもしれません。
ゴッホのひまわりについての感情はテオへの手紙の中でもあまり多く語られていませんが、自ら多く模写をしていたこともあり、ゴッホの自信作であったことがわかっています。現在も、ゴッホの《ひまわり》は代表作として世界中に知られています。
ゴッホの《ひまわり》は、アルルで描かれた4作品、そして耳切り事件のあと、サン=レミで描かれた3作品。それらサン=レミの3作品はそれらはまたゴーギャンのために描いたという説もあり、ひまわりの作品が全てゴーギャンと縁深いものであることが推察されます。これらのうち、ゴッホ作品の中でも最も知られている12輪と15輪の《ひまわり》の現在の所蔵先は以下の通り。
1888年8月《ひまわり、12本》ノイエ・ピナコテーク(ドイツ、ミュンヘン)
1889年1月《ひまわり、12本》フィラデルフィア美術館(アメリカ、フィラデルフィア)
1888年8月《ひまわり、15本》ナショナルギャラリー(イギリス、ロンドン)
1889年1月《ひまわり、15本》東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館(日本、東京)
1889年1月《ひまわり、15本》ゴッホ美術館(オランダ、アムステルダム)
ゴッホの死後、その作品はテオの妻の尽力によってその価値を急激に高騰させ、今やオークションで100億もの値段がつくほどの名作となっています。特に《ひまわり》の作品は世界中の美術館が所蔵し、日本でも損保ジャパンが1987年にオークションにて当時のレートの58億円で落札しました。現在でも、新宿区の損保ジャパン日本興亜美術館で常設展示作品として公開しています。
実は東京の美術館でひまわりの作品が常設で見られるって知ってる?
世界的に知られている名作であるゴッホの《ひまわり》は、実は身近な日本の美術館でいつでも見ることができます。もちろん、まごうことなき本物の《ひまわり》の絵であり、バブルの時代に日本の損害保険会社である損保ジャパンがオークションで競り落としたもの。
損保ジャパン日本興亜美術館が所蔵する《ひまわり》は、ゴッホの「耳切り事件」の数週間後の1889年にサン=レミの療養院で静養中に描かれました。アルルで2作目に描かれた《ひまわり》の模写であり、画面全体が黄色のトーンで描かれ、おそらくは日本の美術の教科書でも見かけたり、人によっては感想文を書かされたことがあるのではないでしょうか。
損保ジャパン日本興亜美術館は1976年、西新宿に開設されました。運営する公益財団法人損保ジャパン日本興亜美術財団は、展覧会の開催や新鋭作家の支援、また「対話による美術教育」という活動の促進を行なっているもの。
そして日本で唯一、ゴッホの《ひまわり》を購入し所有する美術館としてその名を知られています。ゴッホの作品はポスト印象派の中でも最も人気であり、ほとんど毎年開催される「ゴッホ展」では、来日する他のゴッホ作品の中にこの損保ジャパンが所蔵する《ひまわり》を見ることもできるでしょう。
また、実は日本はもともと損保ジャパン日本興亜美術館のものを含めて2作品のひまわりの絵を所有していたということをご存知でしょうか。その所有者は兵庫県は芦屋の実業家で、1920年にスイスで購入したものといわれています。そうして「芦屋のひまわり」として地元市民に親しまれていましたが、残念ながら第二次世界大戦の戦火で消失してしまいました。
「芦屋のひまわり」は、ゴッホがアルルで制作した5輪のひまわりの絵であり、稀少であったはずですが、戦争のために失われてしまったことが残念でなりません。全部で7作品あったゴッホのひまわりの絵は、現在世界に6作品残されています。
まとめ
ゴッホの「光」であり、日差しの強い南仏の太陽とユートピアの象徴と例えられるゴッホの《ひまわり》は、現在世界中の美術館で展示され、日本でも常にそれを鑑賞することができます。
損保ジャパン日本興亜美術館では、「対話による美術鑑賞会」というかたちで一般の方向けに作品の解説付きで館内の《ひまわり》を鑑賞することができるでしょう。
ゴッホの描くひまわりは、ゴッホにとっての希望の象徴であり、またゴーギャンを追想するものでもありました。ゴッホと袂を分かったゴーギャンも、晩年のころにゴッホに向けたオマージュとしてひまわりの絵を描いていることから、ひまわりはまたゴッホ自身を象徴する花としても捉えられています。
ちなみに、ゴッホが描いたひまわりの品種は一重咲きと八重咲きの二種類が混合したもの。現在、花屋では「ゴッホのひまわり」としてその絵画に描かれたものと近い品種が売られていることがあるので、陶器の花瓶に活けて青い背景に置けば、まるでゴッホの《ひまわり》が現実に飛び出したように飾るのもいいかもしれません。
また「ひまわりの画家」として、精神の脆かったゴッホが苦しみの末に描いた絵画に用いた、言うなれば「魂を分けた」パレットは、現在オルセー美術館に展示されています。