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教養として知っておきたい!印象派画家のセルフポートレートを解説

ゴッホ
37点の自画像から読み解く ファン・ゴッホの心情の変化と遷移
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精力的な画家だったと言われているゴッホ。ゴッホが画家として過ごした時期はわずか10年ですが、その短い間に、スケッチを入れると何と2000点にのぼる作品を生み出しているのです。

テーマに取り上げた内容は人物画、風景、植物、建物など多岐に渡りますが、その中でも、自画像はわずか3年半というさらに短い間に、37点にも及ぶ作品を制作。ゴッホはいったいなぜそれほど多くの自画像を描いたのでしょうか。

ゴッホの自画像制作期間を4つの時代に分け、代表的な自画像を見ながら、それぞれの時代におけるファン・ゴッホの心情の変化と遷移を読み解いていきたいと思います。

ゴッホはなぜ多くの自画像を描いたのか


写真がまだ一般に広まっていなかった19世紀後半、自画像を描く一番の理由はまず何といっても自分の映像を残すことだったと思います。

けれどもそれだけならば1年に1枚程度でも良いはずです。ところがゴッホは、月に1枚くらいのペースで自画像を描いていました。そして出身のオランダに住んでいる頃から、ゴッホは人物を描くことに強い関心を抱いていました。

ところが描いた絵が売れず、生活費も画商だった弟のテオに頼るほど貧窮していたゴッホは、人物画を描こうにもモデルになってくれる人を雇う金銭的な余裕がありませんでした。その点、「自分」は人物画のモデルとして最も身近な存在であり、「心棒強く最後まで勤めてくれるモデル」であったのです。

つまり自分をモデルにして人物画の技法を磨こうとしたことが、数多くの自画像を生み出す要因だったと言うことができるでしょう。

4つの時代別ゴッホの自画像の特徴

ゴッホが本格的に絵を描き始めたのは1880年。オランダのニューネンにいる頃でした。

「じゃがいもを食べる人々」の絵で知られているように農村の人々の様子や風景を主に制作。この頃にはまだ自画像は描いていませんでした。もしかしたら何枚か描いたのかもしれませんが、少なくとも、その頃に描いた自画像は残っていません。

ですので、それ以降、つまりパリに移ってからの時期を「パリ時代前半」「パリ時代後半」「アルル時代」「サン・レミ療養所時代」の4つに分けて、各時代に制作した自画像を見ながらゴッホの心情の変化を読み解いていきたいと思います。

パリ時代前半(1886)

パイプをくわえた自画像(1886年春、パリ)

1886年、ゴッホはパリで画商をしていた弟のテオと同居するためにパリに移り住みます。

19世紀後半のパリは「芸術の都」の最盛期。ゴッホの目にはそんなパリがまばゆいばかりに映り、パリで暮らし始めた当時はゴッホは胸の躍るような興奮を抑えることができませんでした。

そして自画像を描き始めたのもその頃から。パリ滞在の前期、つまり1886年には全部で10枚ほどの自画像を制作しています。

この頃の代表作には、茶褐色のフェルトの帽子をかぶった自画像やパイプをくわえた自画像があります。これらの作品では当時一般的に人物画の制作でよく使われていた暗い色が使われ、ここではまだゴッホらしさは現れていません。帽子をかぶった作品でもパイプをくわた作品でも、描かれているゴッホの姿からはどこかゆとりのある雰囲気が伝わってきます。

パリ時代後半(1887~1888)

麦わら帽をかぶった自画像(1887年夏、パリ)

パリ時代後半つまり1887年から1888年の初頭に描いた自画像では、麦わら帽子をかぶった農民的なゴッホが描かれています。使っている色も黄色を基調とした明るい色が使われ、確かに前年の作品とは大きな違いがみられます。

ところが、その年の後半になると再びスーツに身を包んだ自画像に変化。使っている色も青やグレーなど地味な色に変わっています。こうした変化からは、パリにおける自身のアイデンティティの確立に悩んでいたゴッホの姿が浮かび上がってきます。

グレーのフェルト帽をかぶった自画像(1887/88年冬、パリ)

ゴッホはパリの華やかさにあこがれながら、その中に完全に入っていけない自分を見出していました。この時代に描いたグレーのフェルトの帽子をかぶりこざっぱりとしたスーツを着た自画像は、ゴッホの自画像の中では最もおしゃれをしたもので、しっかり正面を向いているのが特徴です。明らかにパリという大都会の影響を受けていることがわかります。

イーゼルの前の自画像(1888年1月、パリ)

パリ在住中のゴッホを特徴づけるもう一つの出来事は、画家としての基礎を固めることができたことです。

パリでは絵の教室にも通い他の画家とも交流ができました。またジャポニズムが広まったのもこの頃。ゴッホの絵にも明らかに日本画の影響がみられます。ゴッホはこのような様々な体験から多くのことを学び、そこから画家としての自信を確立して行きました。

そんな画家としての自信あふれる姿を描いたのが1888年1月に制作した右手にパレットと筆を持った自画像です。

これは、ゴッホがパリで描いた最後の自画像。この絵では、ゴッホはもうおしゃれをしていません。パリの労働者が着る青い作業服を着ています。若いころから労働者や農民に同情を示し、ブルジョアを嫌っていたゴッホが自分の立場をしっかりと示した作品だと言えるかもしれません。

パレットと筆を持ちイーゼルの前に立った構成は、レンブラントの自画像を模したものだと考えられています。それほど、この時点でゴッホは、画家としての自信を持つようになっていたのではないでしょうか。

技法的には、タッチが安定するようになっていることが観察でき、このことからも画家としての落ち着きを感じ取ることができます。パリ時代後半に、ゴッホは17枚もの自画像を描いているのです。

ところがその一方で、ゴッホは大都会の雰囲気になじめない自分を見出し、パリの生活にだんだん嫌気がさすようになっていきました。例えば、パリでモデルになってくれる人を見つけることは大変難しく、しかも街の通りにキャンバスを持ちだして絵を描くことも禁じられていました。こうした不便な環境に対しゴッホの持ち前の気性の激しさが爆発し、ゴッホはパリが嫌いになってしまったのです。

アルル時代(1888年2月~1889年5月)

自画像(1888年9月、アルル)

  

1888年2月、パリでの生活が耐え難くなったゴッホは突然テオの家を出て南フランスのアルルに引っ越します。アルル地方の気候は夏は乾燥して暑く、冬はそれほど寒くなく穏やかで住みやすいという地中海性気候。

ではゴッホはなぜ明るい日差しの差すアルルを居住先として選んだのでしょうか。そのことを知るにはパリ滞在中に日本の浮世絵と出会ったことに言及しなければいけません。

浮世絵は当時「ジャポニズム」としてパリの画壇を一風していたのですが、それを見た芸術家達は、浮世絵に影がないことから、日本はさぞかし南仏のように太陽の光がさんさんと降り注ぐところだろうと思い込んでいたと言われています。このことを西岡文彦氏はその著書「謎解きゴッホ: 見方の極意 魂のタッチ」の中で以下のように述べています。

影を『描かない』のではなく、影を『描けない』浮世絵の風景を鵜呑みにしたヨーロッパの人々の多くは、ゴッホと同様に、日本を南仏のような風土の国と思いこんでしまったのである

かくしてアルルに移り住んだゴッホでしたが、絵の制作の方は、「種まく人」「アルルの風景」などのアルル地方の風景画や「ひまわり」や「椅子」などの静物画に時間を費やし、自画像の方はわずか5点。ところがこの内3つの作品は当時のゴッホの生活や心情を大変よく表しています。一つはゴーギャンに送った作品です。ゴーギャンはゴッホの共同アトリエへの呼びかけを受け入れてくれた画家でしたが、実際にゴーギャンがアルルに到着するまでにゴッホは3ヶ月も待たなければいけませんでした。

この自画像はそのゴーギャンを待っているときに制作し送り届けた作品です。青を背景として茶褐色のスーツを着たゴッホが描かれています。きちんとした服装はゴーギャンへの尊敬の念を示していると考えられますが、それに比して頭は坊主頭、顔の表情はうつろで暗い。ゴッホはこの絵をゴーギャンに送ることで、待つことに疲れた自分の気持ちを伝えたかったのではないでしょうか。「早く来てほしい」、そんな思いが伝わってきます。

包帯をしてパイプをくわえた自画像(1889年1月、アルル)

頭に包帯をした自画像(1889年1月、アルル)

アルルで制作した顕著な自画像の内、後の2点は、耳を切り落とし包帯を巻いた姿を描いたものです。ゴーギャンと口論になり自分の耳を剃刀で切り落とすというすさまじい事件だったにもかかわらず、自画像の中のゴッホはどこか穏やかな表情をしています。

1枚目の絵はパイプをくゆらし、2枚目の絵には背景に浮世絵らしきものまで登場。どこかに余裕さえ感じさせられる不思議な絵です。一説では耳を切り落としたのはゴーギャンで、ゴッホは彼をかばって自分で切ったと言明したとも。もしそうだとしたら、ゴーギャンをかばったという自負がこのようなゆとりを感じさせる作品に繋がっていったのかもしれません。ちなみにゴッホはこの事件については一切語っていないそうです。

サン・レミ療養所時代(1889)

自画像(1889年8月、サン・レミ)

耳切り事件後、ゴッホは狂人扱いされ、1889年5月8月、精神病者としてサン・レミー療養所に監禁されることになります。ここで運が良かったのは絵を描くことを許されたことです。

サン・レミー療養所では全部で7枚の作品を残していますが、そのうち4枚が自画像。最初の自画像は同年8月に描いたもの。この自画像ではパレットと筆を持った姿が描かれていますが、顔色が悪く頬がこけた顔つきをしており、不安定な精神状態が感じ取れます。療養所に入って間もない頃ですから、精神的に不安定なのは否定できませんが、そのような悪い状態にありながらもパレットと筆をもたせているのは、画家である自分を再認識したかったのかもしれません。

自画像(1889年9月、サン・レミ)

同年翌月9月にゴッホは、3枚の自画像を描いています。一つ目の作品では背景は薄暗い青緑。激しいうねりが見られます。顔は青ざめ目はうつろ。この作品はゴッホの自画像の中でも最も悲惨な様子が表れた作品です。

耳切り事件で切り落とした耳は左側なので、鏡を見て描いた場合には、傷ついた耳は本人にとって右側(自画像の中では左側)に描かれます。アルルで描いた包帯を巻いた自画像ではこの構成になっています。ところがサン・レミで書いたこの自画像では本人にとって左側(自画像の中では右側)に描かれています。つまり、この絵は鏡を見て描いたのではなく、想像によって描いたものだということができます。まさに当時のゴッホの心情を端的に表した作品だと言えるのではないでしょうか。

自画像(1889年9月、サン・レミ)

ところが2番目に描いたもう一つの自画像には全く異なるゴッホが描かれています。背景にはうねりがはっきりと見られますが、前作より明るくなっており、顔にも陰陽が表現されています。またスーツを着て、上着をはおり、おしゃれに見える。服装の方もしっかりと描かれています。この2枚の自画像からは、サン・レミでのゴッホの精神状態が暗くなったり明るくなったりと不安定だったことが窺われます。

自画像(1889年9月、サン・レミ)

そして3つ目の自画像。この作品は最後の自画像になるのですが、ゴッホはこれを母親の誕生日のプレゼントとして制作し送りました。この絵の中にはあまりうねりは見られず、黒い輪郭線が他の自画像よりもはっきり描かれ、丁寧なタッチが見られます。顔色も悪くなく表情もどこかに優しさが漂っています。母親へのプレゼントということで細かい点に配慮したことが窺われます。着ている青い労働着は自分の本当のアイデンティティを表しているのではないでしょうか。

まとめ

短いながらも波瀾万丈の激しい人生を送ったゴッホ。

大都会パリに憧れその中に溶け込もうとしながらそれができず、降り注ぐ太陽の光を求めてアルルに移り、求めていた色彩を発見し、そしてやがて急降下で精神的に病んでいく悲惨な人生。

印象派の画家を代表する一人であるゴッホが残した自画像からは、パリ、アルル、サン・レミと3つの場所で過ごしたゴッホの心情の変化と遷移を窺うことができます。

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