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シュルレアリズムの芸術家の中でも日本だけでなく世界で、突出した人気を誇るベルギーの画家、ルネ・マグリット。
彼の絵画や作品の魅力は、明快な線と透明感、そしてその中に宿る幻想にあります。
ルネ・マグリットの絵は、現実を否定していません。
ぱっと見れば、非常に写実主義で描かれた絵であるにもかかわらず、理解しがたい摩訶不思議が作品中にちりばめられているのです。
その落差がまた、見るものを惹きつけるのかもしれません。
目次
ルネ・マグリットの生涯
暗い影を落とした母の死
ルネ・マグリットがベルギーのレシーヌに生まれたのは、1898年のことでした。
父のレオポルドは仕立て屋で、ルネ・マグリットの幼少期に一家は何度かベルギー内での引っ越しを繰り返しています。
典型的な中産階級であったマグリット家には、ルネのあとに2人の息子が生まれています。
1910年、マグリットが12歳になった年に一家はシャトレに落ち着くのですが2年後、母のレジーナが入水自殺をします。
レジーナは、頭部にナイトガウンが絡まった状態で発見されました。
この情景は少年であったマグリットの心に深く残り、後年の作品『事件の核心』『恋人たち』などに反映されたといわれています。
いずれの作品も、父が亡くなった1928年に描かれているところに、マグリットの心の傷と両親への愛を見るかのようです。
恋人たち
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-lovers-1928
事件の核心
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-heart-of-the-matter-1928
琴瑟相和した幼馴染の妻
母の死の後、マグリットの一家は悲しみを癒すべく、シャルルロワに居を移しました。
その中で徐々に絵画への興味を募らせていったマグリットは、1916年にベルギーのブリュッセル王立美術アカデミーに入学します。
そして1922年に、15歳の時に知り合った幼馴染のジョルジュエット・ベルジュと結婚。
ジョルジュエットはマグリットより3歳年下で、生家は精肉店というごく普通の女性でした。
しかし、結婚後はマグリットの膨大な作品のモデルとなり、生涯マグリットのインスピレーションを喚起するミューズであり続けたのです。
黒魔術
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/black-magic-1934
ジョルジュエット・ベルジュ
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/georgette-magritte-1934
ジョルジオ・デ・キリコの作品との出会いからシュルレアリズムへ
結婚の翌年から、ルネ・マグリットは絵画だけでなく、広告のデザインやグラフィックデザインなどを手掛けるようになりました。
当時製作した広告デザイン
href=”https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/advertisment-for-norine-10
ルネ・マグリットの初期の作品は、20世紀のキュビズムやフトゥリズモの影響を少なからず受けたもの。
そのルネ・マグリットが、シュルレアリズムにはっきりと目覚めたのは、イタリアの画家ジョルジオ・デ・キリコの作品に出会ったときであったとマグリット自身が述懐しています。
とくに、巨大なアポロンの頭部と赤いゴム手袋が並んで描かれたデ・キリコの『愛の歌』が、ルネ・マグリットのその後の作風を決めたといっても過言ではありませんでした。
『愛の歌』は、ルネ・マグリットという画家のキャリアに啓示を与えたのです。
とはいえ、画風はすぐに確立されたわけではありません。暗中模索の日々の中、初めてルネ・マグリットの作品が売れたのは1923年のことでした。
デ・キリコに感化されたルネ・マグリットは、「見たものを描く」という基本から実験的な試みを開始、1925年には、ポール・ヌジェなどから構成されるブリュッセルのシュルレアリズムのグループに参加しています。
当時のブリュッセルのシュルレアリズムのグループのメンバー
- カミーユ・ゲーマンス
- マーセル・ルコント
- ポール・ヌジェ
当時、ルネ・マグリットはさまざまな試みの中から数々の絵画作品を生み出していますが、1926年に描いた『迷える騎士』がシュルレアリズムとしては第一作目とされています。
マグリットは、アカデミーの潮流に忠実な作風を守りながら、現実を超えた現実を描こうとしていたといわれています。
迷える騎士
href=”https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-lost-jockey-1926
パリ時代。シュルレアリズムとの遭遇
1926年、ルネ・マグリットはパリのシュルレアリストであるアンドレ・ブルトンとコンタクトを取り、その作品を目にして「私の眼は初めて思想を見た」と語っています。
ブルトンの思想では、シュルレアリズムとは人間の内面に潜む不合理に焦点を当てたものであり、芸術によってその潜在意識を表現するというものでした。
人間の論理を拒否して、規制のない自由な表現を尊重するというシュルレアリズムが、ルネ・マグリットのその後の作品の核となったのです。
ブルトンの思想に大いに刺激を受けたマグリットは翌年、自身の作品61作品を一堂に集めた初めての展覧会を開いています。
そして、1927年には妻のジョルジュエットとともにパリのル・ペルー=シュル=マルヌに移住。
このパリの時代に、ルネ・マグリットはジョアン・ミロやポール・エリュワール、ジャン・アルプなどと昵懇の中になりました。
そして、シュルレアリズム運動のさまざまな展示会に参加し、国際的な名声を得るようになったのです。
1929年には、一時期をサルバドール・ダリ、詩人のポール・エリュアールとその妻ガラ(のちのダリの妻)ともにスペインで過ごしています。
同年、パリでの展示会も成功させました。
しかし、1930年にベルギーに戻ったマグリットは、その創作活動のほとんどを故郷で過ごすことになるのです。
1920年代の代表作『イメージの裏切り』
href=”https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-treachery-of-images-this-is-not-a-pipe-1948
24年間を過ごしたベルギーの家
ベルギーに戻ったルネ・マグリットは、ブリュッセル北部のジェットにあるエスゲム通り135番に居を構え、24年間そこを離れることはありませんでした。
このこじんまりとしたアパートから、ルネ・マグリットの全800作品のうち半分が生まれたといわれています。
そしてこのマグリットの家は、当時のベルギーにおけるシュルレアリズムの重要拠点ともなったのです。
ルイ・スキュートネール、イレーヌ・アモワール、アンドレ・スーリーなど、シュルレアリズムを代表する文学者や音楽家が集い、さまざまなイベントも行われました。
彼らは毎週土曜日の夜、芸術について語り合うのを楽しみしていたといいます。
芸術家にありがちな奇行や放埓とは無縁であったマグリットにとって、堅実なベルギー人たちとの語らいが最も心安らぐものであったのかもしれません。
現在、このマグリットの家はルネ・マグリット美術館となっています。
セルフポートレート
href=”https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/clairvoyance-self-portrait-1936
ドイツの侵略を逃れてフランスへ
1940年頃からドイツの台頭が著しくなり、マグリットはフランスのカルカソンヌに引っ越します。
故郷から離れたフランス滞在は、マグリットの作品を大きく変えました。
そのキャリアの中でも特異な「ルノワール時代」と呼ばれる作風がそれです。
ルノワールの時代は1947年まで続き、その後は「牡牛の時代」と呼ばれる時代に突入します。いずれも、より明るく官能的に、そして全盛期の印象派を彷彿とさせる筆遣いになっています。
しかしそれまでとは一転したこの作風は人気が出ず、長続きはしませんでした。
ザ・ファースト・デイ
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-first-day-1943
The Tow Plug
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-tow-plug-1947
1945年、ふたたび独自のシュルレアリズムへ
パリ時代と決別したのは1945年、これ以後のマグリットはパリのシュルレアリズムとは異なる自らの道を行くことになります。
私たちがルネ・マグリットの作品として思い浮かべる作品は、この時代以降に生まれたものがほとんどです。
そして、晩年はその活動も活発でした。
1951年にはブリュッセルの王立劇場の天井画を作成、1952年には自ら主宰した雑誌『写生の葉書』を出版。
1953年には、クノッケ=ル=ズートのカジノの壁画を作成し、同時期から、代表作である『光の帝国』シリーズも完成と精力的に活動しています。
ルネ・マグリットの作品の中でも特に人気が高い『光の帝国』についてマグリットは、「私は作品の中に、昼と夜を共存させた。作品中のこの同時性が、鑑賞者を魅了し驚きを想起させる。これを、私は詩的な力と呼ぶ」と語っています。
人気を不動のものにした『光の帝国』
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-empire-of-lights-1954-1
ルネ・マグリットの晩年。最後は故郷ベルギーブリュッセルで。
こののち、アメリカ合衆国を訪れたのをきっかけにルネ・マグリットはその死まで国際的な人気を享受し続けます。
それと同時に、健康にも問題を抱え始めた時期でした。1965年には療養のためイタリアのイスキア島に滞在、ローマも訪問しています。
1966年、ルネ・マグリットはカンヌとイタリアのモンテカティーニ旅行後に倒れ、1967年8月15日に膵癌のためブリュッセルで亡くなりました。
今も、妻のジョルジュエットともにブリュッセルで眠っています。
マグリットの晩年の傑作『大家族』
https://www.artpedia.asia/magritte-the-large-family/
作品の説明に当たり「目に見えるものはほかの見えるものを隠している」という名言を残した『白紙委任状』
白紙委任状
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-blank-signature-1965
ルネ・マグリットの作風と後世への影響
私たちがルネ・マグリットと聞いて思い浮かべる作品の多くは、試行錯誤を経てマグリットが到達した最盛期から晩年のものがほとんど。
晩年の作品を彩る明快な線は、写真とも見がまうばかりに写実的でありながら現実離れした美しい世界を作り出しています。
想像を絶するような不思議な物体の配置が見るものをギョッとさせるにも関わらず、作品からはこの上ない静謐が漂ってきます。
ルネ・マグリットの不思議な世界は、21世紀に入ってからも芸術家たちに多大な影響を与えました。
左)アラン・ハル/パイプ ドリーム 右)ジェフ・ベック/ベック・オラ
ジェフ・ベックやアラン・ハルをはじめとするミュージシャンたちがジャケットにマグリットの作品を用いているほか、映画『エクソシスト』や『トーマス・クラウン・アフェアー』にも、ルネ・マグリットという芸術家へのオマージュを見ることができます。
ジェフ・ベックがジャケットに用いた『リスニング・ルーム』。ここで描かれたリンゴは、ルネ・マグリットの作品に数多く登場している。
リスニング・ルーム
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/the-listening-room-1952
アラン・ハルがジャケットに用いた『哲学者のランプ』
哲学者のランプ
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/philosopher-s-lamp-1936
映画『トーマス・クラウン・アフェアー』に登場する『山高帽の男』も、ルネ・マグリットの最盛期の数多くの作品に登場します。
山高帽の男
https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/son-of-man-1964
いつか尋ねたいベルギーのマグリット美術館
いかがだったでしょうか、今回はベルギーを代表するシュルレアリスムの画家、ルネ・マグリットの世界観や作品、そしてルネ・マグリットについてを解説してきました。
シュルレアリスムの作品はその深い作品性から見所の多いものが多く、日本での展覧会も待ち遠しいところ。今は予定がないので画集などでしか彼の作品を楽しむことしかできません。
そんなルネ・マグリットの名画作品は故郷デンマークのブリュッセルにあるマグリット美術館で観ることができます。
「光の帝国」など代表作だけでなく、「ブリュッセルとマグリット」「戦争に対して」「マグリットとコミュニズム」「黒魔術」など有名作品が揃っており、画家、ルネ・マグリットファンなら一度は行ってみたい美術館ですよね。
建物自体も素晴らしくアートファンにはたまらない場所です。