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モネの風景画「印象・日の出」。1872年にモネが制作したこの絵は、印象派の名前の由来となった作品として知られています。ではいったい印象・日の出とはどんな作品なのでしょうか。またなぜこの絵が印象派の名前の由来になったのでしょうか。そのいきさつなど詳細を解説します。
目次
作品が生まれた背景
モネの印象・日の出はフランスの北西部にあるル・アーブルの港の朝の光景を描いた作品です。1872年に制作されたものですが、この時モネは港を見下ろすホテルに滞在していました。そのホテルの窓から見えたのが印象・日の出で表現された風景だったのです。
それまでのヨーロッパの画壇では、風景画は程度の低いものとみなされ、しかも絵の表面を平らに塗ることが一般的な手法でした。モネは、こうした決まりきった手法に縛られることなく、自分の目に映った風景を印象としてこの絵の中に表現しました。
モネがル・アーブルの港をモチーフにした作品には、その他、「船の習作」「修理中の船舶」「ル・アーブルの港、夜の効果」「ル・アーブルの旧外港の風景」「貿易のドッグ、ル・アーブル」などの作品が複数あります。ところが、そのどれもが、船や港の様子が詳細に描かれている一方で、絵の中には日の光が登場していません。どちらかというと暗い雰囲気の漂う絵になっており、手法としてもまだ伝統的な手法を取り入れています。それだけに、印象・日の出で表現されている太陽の光、そしてそれが水面に映る様は、モネの目に強烈に映り、それが印象・日の出の制作に結び付いて行ったのでしょう。ただモネが光を本格的に表現するようになるのは、睡蓮の絵を描き始めてからということになります。
【歴史のマイルストーン】なぜこのモネの作品が印象派の名前の由来となった?
モネの印象・日の出はそれまでの伝統的な絵画の手法を無視したモネ独自の手法で描かれました。その頃モネは伝統的な展覧会に出品した作品が落選することが多くなったため、こうした展覧会から離れるようになっていました。そして新しい手法を用いて絵を制作するようになった他の画家達(つまり印象派の画家達)と共同出資して、自分たちの展覧会を創立したのです。そのモネ達の展覧会は1874年に初めて開催されました。その時に出展したのがこの印象・日の出だったのです。この展覧会には、モネの他、ドガ、ピサロ、ルノワール、など30人以上の画家が出品し、全部で200点以上の作品が展示されたと言われています。
出品された作品の中でもモネの印象・日の出は特にユニークなもので鑑賞者の目を惹きました。ところが、世間一般の評価はひどいものでした。例えば、風刺新聞『シャリヴァリ』には次のような批評が載せられました。
印象か。確かにわしもそう思った。わしも印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけだな。だが、なんという放漫、なんといういいかげんさだ!この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよくできているくらいだ。
http://www.artmuseum.jpn.org/mu_hinode.html
かなり皮肉を込めた酷評とも言うべき批評ですが、このコメントの筆者は、モネの作品名「印象・日の出」の印象を取って「印象派展」という見出しを付けたのです。そこから現在でも使われている「印象派」という言葉が広まって行ったと言われています。皮肉なことにこの酷評が印象派の名前の由来になったわけです。
印象・日の出についてアートライターが解説
モネの印象・日の出には、これまでいくつか不明の展がありました。それを謎として、いろいろな意見が交わされてきました。その一つが、この絵は日の出を描いたものなのか、夕日を描いたものなのかという論議でした。実際初期の頃は「夕日」と題されていたようです。それが「日の出」に変わったのは、印象・日の出を所蔵しているマルモッタン美術館の研究発表がされてからでした。その研究結果の要約は次の通りです。
モネが描いたル・アーブルの港は、第2次世界大戦で崩壊してしまったため当時の風景は正確にはわかりません。ただ幸いなことに、モネの印象・日の出以外にも、港の絵や地図が残っているため、当時の港の様子を再現することができます。そしてその時モネが滞在していたホテルがアミロテホテルであることを考え合わせると、印象・日の出の風景は早朝にそのホテルの窓から見えたものであると結論付けることができるのです。つまりモネは夕日ではなく日の出を描いたのです。
次に論議に上がったのが印象・日の出の制作日でした。作品の左下にはモネの名前と72の数字が書かれています。これをそのまま受け止めれば印象・日の出は1872年に制作したことになりますが、これに異議を唱える声が上がっていました。それは、モネが複数の友人知人と交わした書簡などを見ても、1972年にル・アーブルに滞在していたという記録がなく、1873年4月にピサロに送った書簡に「ノルマンディーに滞在している」となっていたためです(ル・アーブルはノルマンディー地域の一都市)。
こうした理由から、その後長い間、印象・日の出の制作は1873年4月だと考えられていました。実際、今でもたとえば「西洋絵画美術館」の印象・日の出の解説では制作年が1873年になっています。ところが、2014年、マルモッタン美術館がアメリカのテキサス州立大学の天文学部に調査を依頼したところ、「1872年11月13日7時35分頃」という時間まで入れた調査結果が報告されたのです。この調査は当時の太陽の位置や潮の状態、天気などを条件として分析したもので、今では1972年11月という制作日が定着しています。
モネの印象・日の出は画法や構成において伝統的な絵画とは大きな違いがあります。まず、伝統的な絵では空を大きく描くのが一般的でしたが、モネの日の出は海のスペースを大きく取り、水面に当たる太陽の光を、しかもモネが見た瞬間の光の状態を絵に表現しています。モネのこの観察力を賞して、ポール・セザンヌは次のような言葉を残しています。
彼は眼である。しかし、なんという眼だろう!
http://www.artmuseum.jpn.org/mu_hinode.html
モネの印象・日の出が伝統的な画法と違うもう一つの点は、筆運びです。伝統的な画法では筆の跡が見えないようにとにかくキャンバスの表面をスムーズにすることに焦点を当てていますが、印象・日の出では筆の跡があらわに見えています。それはモネが、受け取った印象をそのまま表現したからです。モネは印象・日の出を発表する際に、タイトルとして「ル・アーヴルの眺め」というタイトルも考えたと言われていますが、このタイトルは不適切と考えられ、それなら「印象・日の出」にということで決まったと言われています。
クロード・モネの印象・日の出が観れる美術館は
モネの印象・日の出は1966年にフランスのマルモッタン美術館(Musée Marmottan Monet)に所蔵されましたが、1985年に盗難。ところが5年後の1990年に発見されたため、翌年同美術館に返され、現在に至っています。
マルモッタン美術館は美術史家だったポール・マルモッタンの邸宅を改造してオープンしたものです。後にモネの息子がモネの作品65点を寄贈したため、モネの作品コレクションを所蔵する美術館として知られるようになりました。モネの65点の作品の内、その多くは他の美術館への貸し出しが可能ですが、印象・日の出だけは貸出を禁じています。ということで印象・日の出はマルモッタン美術館でしか観ることができません。
マルモッタン美術館では地下の展示室をモネ専用の特別展示室として公開しています。また1階には、ルノワール、ピサロ、モリゾなどの印象派画家の作品を展示し、2階は現代美術の展示場になっています。
マルモッタン美術館は、前述のようにマルモッタンの邸宅を改造しているため、邸宅としての室内装飾も残っており、これがこの美術館のもう一つの見どころにもなっています。
まとめ
モネの1872年制作の作品「印象・日の出」は、それまでの伝統的な画法を打ち崩すものとして当時、酷評に晒されました。ところがこの酷評で使われた「印象派」という呼び方がそのまま残り、現在使われている「印象派」の名前の由来となったと言われています。朝日が海に当たり作り出されるその瞬間の美しい印象を表現したこの作品は、まさに印象派の最初の作品として、これからも多くの人の目を惹きつけていくことでしょう。パリに行くことがあれば、ぜひ所蔵されている「マルモッタン美術館」を訪ねてください。